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2018年7月28日 (土)

戯文家・ジャーナリスト服部撫松(誠一)、(福島県)

 平成最後の夏はもう散々。西日本に豪雨災害をもたらした上に、39度40度という灼熱を浴びせ容赦ない。信じられない猛暑いつまでと文句しかないが、被災地の困難を思えば文句をひっこめよう。好きな時に冷たい物を飲んだり食べたりできるだけでも休まる。
 氷は平安の昔から貴族などは食べていたようだが幕末、横浜が開港すると庶民にも手が届くようになった。アメリカ人がボストンから氷を輸入して大儲けした話もある。また、1862文久2年、中川嘉兵衛が横浜馬車道に氷店を開業、2時間待ちもという大繁盛。次はこの有様を見た9代目団十郎(團洲)の句
     身に染むや 夏の氷の 有りがたさ       團洲

 氷の話は、*石井研堂『明治事物起原』からの引用である。研堂は福島県二本松の出身で今回紹介する服部撫松も同地出身。撫松(1842~1908)と研堂(1865~1943)、二人とも好奇心旺盛なのは二本松の土地柄もあるのだろうか。
       『明治事物起源』石井研堂(福島県郡山)
       http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2013/01/post-8f90.html        
 余談ながら、『明治の一郎 山東直砥』主人公山東直砥、いま話題の東京築地にて東京製氷会社を経営していた。明治初期は天然氷だったが、機械製氷事業に成功したのである。

          服部撫松 誠一)

 1842天保13年、福島県、二本松藩代々の儒者の家に生まれる。本名、誠一。
    号の由来は、「孤松を撫でて盤桓す」で、酒席でも多勢で騒ぐことがなかったらしい。
 1870明治3年、上京。
 1874明治7~9年にかけて、『東京新繁昌記』を刊行、文名をあげる。
     開化の世相を戯文家したもので好評を博した。
     成島柳北ほどの諷刺はないが、6編まで刊行された。国会図書館デジタルコレクションで漢文体の本編を閲覧できるが筆者には難しい。ただ、服部没後の大正14年、聚芳閣から三木愛花の解説つきで現代文で出版され、明治初期の東京の風俗を知ることができる。これもデジタル版で読める。

 1876明治9年4月、週刊雑誌『東京新誌』を創刊、発行禁止となる明治16年まで続けた。
      政論誌『公益問答新聞』~明治12年まで。
          改進党系のジャーナリストとして健筆をふるい、業としてはこの方が多かった。
 1877明治10年、『東京新繁昌記』の収入により、東京湯島天神のかたわら妻恋坂の上に二階建ての新家屋を建て、明治20年ごろまで住んでいた。
Photo_3
 1880明治13年、『東洋事情』~明治15年。
      政論誌『江湖新報』~明治15年。
 1881明治14年、艶文雑誌『春草野誌』を主宰、明治15年まで。
 1882明治15年、政論誌『内外政党事情』~明治16年。
 1883明治16年、艶文雑誌『吾妻新誌』を明治19年まで。

 1884明治17年、政論誌『京浜街誌』発行。
      『第二世夢想兵衛胡蝶物語』九春社。これは滝沢馬琴の「夢想兵衛胡蝶物語」に擬し、明治の夢想兵衛が夢で四方を漫遊。時事と社会を諷刺した服部流の漢文で絵入り(写真)。

 1886明治19年、『東京柳巷新史』全2巻。


23 『二十三年国会未来記』(仙鶴堂)刊行。
   写真。第二編の口絵「国会議場に於て歳出予算案に対し議論沸騰の光景」(「国立国会図書館月報2010年」より。)
  明治14年に自由党、15年に改進党が結成され、その間、23年を期して国会が開設されることになり、政治熱が勃興。文学者は政事を語らねば世に落後するかのような風潮があった。

 1887明治20年、このころまで戯文家として活躍。
     教育小説『稚児桜』成美堂。
     文明花園『春告鳥』(鶴声社)。 小説『連理談』(序文は*矢野文雄)。
      *矢野文雄(龍渓): 政治家・小説家。大隈重信とともに改進党結成に参加。政治小説『経国美談』を著したが、柴四朗の『佳人之奇遇』とともに人気を博した。

  同じ明治20年、『通俗佳人之奇遇』(土田泰蔵(大東萍士)鶴声社)出版。序、服部撫松。
 これに対し、『佳人之奇遇』著者東海散士(柴四朗)が著作権侵害として訴えた。 「佳人之奇遇」を通俗化し興味本位に仕立てたとして、大東萍士(土田泰蔵)実際は服部撫松に訴訟を起こした。

 ――― 「東京軽罪裁判所にて、去る五月中無罪の宣告を受けたる『通俗佳人之奇遇』出版者服部誠一、塩野芳兵衛の両氏は、立会検事の控訴にかかり東京控訴院にて審問を受けし末、去る十日原裁判を取り消し、各罰金二十円に処せられ、なお柴四朗氏より請求する損害金四百三十余円を賠償すべしとの言い渡しを受けたるが、両人はこの言い渡しを不当として上告」ということになった(『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』)。 

 その結果、[通俗佳人之奇遇の上告で罰金刑](東京日々新聞)となり、翌年に柴四朗の勝訴で結審した。これが災いしたのか、それとも明治も半ばになり世間一般との感覚がずれて活躍の場がなくなったのか、この後、めぼしいものが見られない。
 

 1896明治29年3月、宮城県仙台第一中学校の作文教師として赴任。
   生徒の*吉野作造は、服部がどんな人か丸で識らず、自慢話しなかったようだ。
   ――― 先生は頗る無頓着であつた。ボロボロのモーニングを夏冬通して一着しか持たれなかった・・・・・・白墨で真白になった手で衣物をいぢる位はます無難だが、ともすると顔を斑白にさへする。生徒が笑つても平気なものだ・・・・・・ 仙台に流れて来られたのは、多分落魄の結果であつたろう。併し一言の不平を先生の口から聞いたことがない。
      “大正デモクラシーに理論を与えた人、吉野作造(宮城県)”
     http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2011/04/post-f3aa.html

   同年10月、『台湾地誌・帝国新領』(出版者・中村与右衛門)発行。
      同書、凡例によると、「本書ハ中等科ヲ標準トシテ之ヲ編纂シ、以テ教科用に適合」

 1908明治41年8月15日、休暇で帰京中、急病で死去。
    つぎも吉野作造<服部誠一翁の追憶>
   ――― 一風変わつて年の割に無邪気な先生くらいに思った外深く注意も払わなかった。私は格別可愛がられたのでしばしば御宅にも出入りしたのだが、それにも拘わらず昔話など少しも聞いておかなかつたことは、今になって甚だ残念に思ふ・・・・・・
   ――― 詞藻の豊富なるに舌を巻いた覚えは慥かにあるが、其の一つだに今に記憶せぬのは心細い。只先生の風采相貌だけは今にありありと眼底に残って居る。いかにも脱俗超凡の天真爛漫なとこが何とも云へない風味を漂はして居つた。

   参考:『主張と閑談. 第4輯 (公人の常識)』吉野作造1925 文化生活研究会 / 『明治文化全集 第21巻』時事小説編1967 / 『現代日本文学大事典』1965明治書院 / 『明治文化史7』文芸編1953洋々社 / 『日本人名辞典』1993三省堂

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