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2018年7月 7日 (土)

北上川三橋(明治橋・夕顔橋・開運橋)(岩手県)

 サッカーを知らない筆者でもワールドカップ、日本選手の活躍にはハラハラドキドキ。侍ブルーの躍動を2018.7.3早朝まで楽しませてもらった。無事な日常が当たり前のような気がしていたが台風7号と梅雨前線が日本を直撃し九州、四国、近畿から東北や北海道にも災害をもたらしている。死傷者もでた被害の大きさに驚くばかり。現地の困難が思いやられる。
 大災害の後は道路や橋が壊れ、建築物も痛手を受け作り直さなければならない。しかし、災害の復旧は簡単ではない。被災地が復旧するまでどのくらい年月を要するだろう。 そうした災害の復旧につとめた記録の一端が、「東北地方における土木年表」が『東北地方における 土木事業近代化の先覚者像』に載っていた。そこから明治期の岩手県の土木を抜きだし、ついで北上三橋の橋物語を加えた。

        岩手県に関する土木年表 (明治期)Photo


 1868明治元年、内務省土木関係年表。明治~大正、土木行政関係災害含む。写真は昔の岩手県庁舎。
 1872明治5年、オランダ技師ドールン、リンドウを雇入れる。
          岩手県胆沢川(金ヶ崎村~八幡村)の再巡橋架設工事着手。
 1874明治7年5月、明治橋が完成。

      明治橋 その一(昔は船橋)

Photo_2


 川原町から仙北町へ船を一列に並べこれを船橋といい、両岸の連絡を図り交通機関とした。その船橋を司る役人は南部藩から遣わされ、水主(かく)といい仙北町に6人、鉈屋町に24人おいた。その頭を船手奉行といい、次は小頭二人、詰め所を番所といった。洪水の時、船をみな両岸にひいた。
 藩主の通る時は赤御召の菱と鶴との御紋をつけた船を用いた。明治6年前は不便極まるもので往来しなければならなかった。船橋の夕照はなかなか見ものであった。
    旅人は急ぎ渡れと舟橋に しばしは淀む夕日かげかな (『郷土史蹟』)

     明治橋 その二(仙北町駅より5町)

 市の南方川原町より仙北町に出る長橋なり。長80間、幅4間、国道の要路にあたる。明治6年、時の県令・*島惟精これの工を起し、翌7年5月竣工す。
 橋の中ほどに堅固なる橋台ありその上に1碑を建て「明治橋」と刻す。*長三洲の筆なり。
 東は鑪山の奇峰を望み、西の堤上に古杉が繁り、また岩手山を抱いて自然の画景を作り、西は延々とした雫石川を介して中央山系の連山と相対し風景真に絶佳なり。而して昔は舟橋にして付近に御舟蔵ありき。舟橋は岡城八景の一として人口に膾炙す。
     舟橋夜雨 原文は漢詩)
  夜の雨に水いやまして 波風にと渡る人もいそぐ舟橋
  
     廬山暮雪 原文漢詩)
  降りつもるたたらの山の雪は また花の雪咲く夕暮の空
                         (文と写真『最新モリヲカ案内』、『盛岡案内』)

長三洲: 幕末・明治期の漢学者・書家。豊後大分の出身。戊辰戦争には奥羽に転戦、のち、文部省学務局長、侍読などを歴任。

 1875明治8年、西磐井郡花泉町夏川の支流、磯田川の洪水による災害復旧工事完了。
        岩手県令・島惟精の計画で宮子~盛岡間の閉伊街道改修工事完了。
        岩手県と秋田県の計画で国見峠の秋田街道が改修、開削される。
        西磐井郡地方が水害に襲われ、北上川および迫川の沿川部が、被害を受ける。また、上の橋、下の橋、明治橋、夕顔瀬橋が落橋(岩手県・宮城県)。

    夕顔瀬橋 (盛岡駅より10町)        

Photo_3 市の西方、茅町より新田町に至る長橋にして国道にあたり、長さ54間、幅3間半なり。昔しばしば河水氾濫し、霖雨あるごとに落橋する有様なりしを以て、明和年間、盛岡藩の側役・大向伊織なる人の苦心研究の結果、河床の中央に堅固なる橋台を築き、犠牲を供して、神仏に祈願をなせしより、大にその患を減ずるに至れり。その橋台、今なお(大正12年)存し、二基の石灯を建てて岩手山を祭る。
 夕顔瀬の名は康平年間(1058~'65)、源頼義その子義家と共に安部貞任を打ち、このところに迫るや貞任力尽き、遂に苦策を弄して夕顔(瓜)を頭としたる藁人形を造り、これに甲冑を纏わしめて擬勢を張りしより出でたる名なりと。
 橋は近く厨川の柵趾を望み、遠く岩手山と相対し、眺望頗る佳なり。

     夕顔瀬夕照 (原文漢詩)
  行かふや遠近人の声まして 夕日を渡る夕顔瀬橋
                                   (引用、明治橋に同じ)

 1876明治9年、道路の種類・等地・規格を定める(国道・県道・里道にわけ、それぞれ1~3等とする)。
       この頃から旧奥州街道を国道とし、磐井郡真柴村~二戸郡釜沢村まで延長する。

 1877明治10年、建築技師コンドル来日、西洋近代建築工学を委嘱。
 1878明治11年、宮城県野蒜港の修築工事にともない、*北上運河の開削。
     北上運河: 12km 幅25m。北上川(岩手・宮城2県を流れる)河口近くの石巻市丸井戸から南方へ通じ、釜入江から海岸に並行、鳴瀬川河口の浜市に至る。

 1880明治13年、大橋~釜石鉄道の建設が完成。
     工部省の計画でイギリス人の鉄道寮建築技師チャールズ・シッパルトの設計、阪神鉄道工事従事者らの施工および、鉄道寮建設助役ジー・パーセルの功労で完成する。

   “運河を貞山堀と名付けた早川智寛(宮城県・九州小倉)”
  http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2018/04/post-befe.html

 1881明治14年、秋田県平鹿郡横手駅より岩手県和賀郡黒沢尻駅間に平和街道が完成。
 1882明治15年、宮古港の埋め立て工事が完了。
 1883明治16年、岩手県の道路11路線、函館街道、秋田街道、浜街道、津軽街道、八戸街道、小本街道、宮古街道、釜石街道、平和街道、今泉街道、気仙沼街道と北上川堤防および前記の道路の架橋が完成。
 1894明治27年、西磐井郡地方、大水害に襲われる。

 1896明治29年、岩手県において福岡~久慈間の府県道が完成する。
          盛岡市の大洪水により夕顔瀬橋、開運橋が流失する。
     6月15日、三陸地方に大津波。(死者27,122人、流失・全半壊8891戸、船被害7032隻)。 岩手県三陸沿岸各地において、船溜り、船揚場、港湾、道路、橋梁、護岸などの復旧工事に着手する。

Photo_4


     開運橋 (盛岡駅より3丁)

 新築地より停車場に至る県道に架す。大正2年8月、洪水のため大半を奪われて久しく仮橋によりて通行せしが、昨年6月新架橋なり。24日、開通式を挙行せり。工費7万2700余円なれど、請負師の請負契約後、鉄材騰貴の厄に遭い生ぜる損失を加算する時は、実際において10万余円を投じたると同一なりと称せらる。
 全長46間1分。中央の4間幅を車道とし、両側に一間二分づつの人道あり。車道は防腐剤を注入せる厚さ3寸の松材を敷き連ね、更に1寸のセメントを塗りその上に、その上に3寸の松材を縦列し、その間隙にアスファルトおよび砂を充填せる最新様式にして、人道はセメントにて固めたる上に橋板をしく。
 将来電車を通ずべき時期あるをみこして設計したるものにして、全国に於いても試みたる事なき建設様式なるという。橋脚3あり、高さ33尺。内部をコンクリートにて固め、外部を花崗岩にて畳たり。橋の袂には花崗岩を磨ける高き袖垣をめぐらし、16個の飾り灯を点ず。
                                          (引用、明治橋に同じ)

 1902明治35年、盛岡~石巻間の北上川に貞水工事を完了する。全長200km。
 1910明治43年8月8日、東海・関東・東北地方一帯に豪雨。浸水44万3千戸。
      阿武隈川、名取川、北上川など台風に襲われる。盛岡の大洪水により、中津川の三橋、与の字橋、明治橋などが流失する。
 1911明治44年、西磐井郡永井村において、金流川堤防復旧工事を完了。総工費720円60銭、堤防決壊43間、深さ25尺、国庫補助を受けて村が事業を行う。

      参考: 『東北地方における 土木事業近代化の先覚者像』1996東北建設協会 / 『最新案内モリヲカ』1918勝又太郎  / 『盛岡案内』1926盛岡市 / 『郷土史蹟』1925小保内弘四・森喜久治編 / 『日本史年表』1990岩波書店 / 国会図書館デジタルコレクション http://kindai.ndl.go.jp/

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