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2018年9月15日 (土)

日本人で初めてフィギュアスケートをした佐藤幸三 (宮城)

 テニス、全米オープン選手権を制覇した大坂なおみ選手、キュートな笑顔で凱旋帰国して世間の空気を明るくしている。現在、スポーツ界にパワハラ問題が持ち上がっているおりしも、大坂選手のコーチの指導法にも注目が集まっている。
 テレビ桟敷でいろいろなスポーツ競技が楽しめる。勝敗もさることながら試合に集中する選手の姿に感動、ときには励まされる。スポーツっていい。なかでもうっとり見入ってしまうのがフィギュアスケート。人間業とは思えない技を優雅に表現している。ここに至るまでの修錬と時間はいかばかりか。
 日本ではじめてフィギュアスケートをしたのは*旧制二高校生。  明治期、仙台の五色沼で基本を外国人から教わった佐藤幸三らである。
  
 その五色沼は、仙台城趾を中心とした緑深い青葉山公園にあり、本丸跡では*伊達政宗騎馬像が仙台市街を見守っている。
        “伊達政宗騎馬像、彫刻家・小室 達 (宮城県)”
    http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2017/07/post-f986.html

 五色沼(仙台城の水堀)が造られた江戸時代は小氷期にあたり、少なくとも戦前までは今より気温が低かった。そのため冬期に五色沼は厚く凍結し、仙台市のスケートの中心地として賑わった。しかし、現在は厳寒期に氷は張るものの、人がのるには不充分である。脇に立つ「日本フィギュアスケート発祥の地碑」が名残をとどめている。
 現在は、「アイスリンク仙台」が、世界的に有名な羽生結弦選手や荒川静香さんが、幼いころ技術を磨いたホームリンクとして知られ、市民に親しまれている。

              佐藤 幸三


 1889明治22年3月11日、仙台市六郷で生まれる。
 1890明治23年頃、仙台在住の外国人がスケートを始めた。
   ?年   仙台第一中学校
   ?年、  旧制第二高等学校。医学部は仙台藩藩校「養賢堂」を源流とする。
       旧制二高:  “仙台医学専門学校、藤野先生と魯迅(宮城県)”
http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2015/08/post-4c00.html

 1909明治42年頃、第二高等学校の生徒がドイツ語教師ウィルヘルにフィギュアスケートの基本を習った。佐藤は在学中、洋書をひもときつつ級友、河久保らとともに五色沼でフィギュアスケートの滑水方法を研究してその先駆けとなる。
 1912明治45年、仙台スケート会。 
        ウィルヘルにフィギュアスケートを習った二高生の田代三郎・佐藤幸三・河久保子朗らは、彼らの後輩を含めて各地で普及に努め、日本スケート界の功労者といわれる。

 1915大正4年、東京帝国大学医学部卒業
        青山内科・真鍋物療科で研究
 1918大正7年、正七位勲六等
 1923大正12年2月、山川内科にて医学博士の学位を授与される。 
                            仙台スケート協会を設立、会長となる。
   ?年、  仙台市の病院長の娘と結婚。跡をついで磯内科病院長となる。
 1924大正14年2月1日、東北氷滑スケート選手権大会(二高主催)宮城県五色沼にて挙行(『運動年鑑』大正14年度・朝日新聞社編)。
  

 1928昭和3年、内科病院を開設。宮城県医師会理事となる。
     この年、松良善熈・みつ夫妻により仙台市元柳町(現在の西公園内)に、常盤木学園高等女学校及び専攻科として設立。校歌は土井晩翠作詞、福井文彦作曲

 1934昭和9年、東北帝国大学医学部・山川内科講師となる。
        新設の「常磐木学園高等女学校」校長を兼任、女子教育に新風を送る。
 1935昭和10年、宮城県医師副会長。翌年、日本内科学会評議員。
 1937昭和12年、欧米視察。 
 1942昭和17年、県医師会会長。大日本医療報国団を結成、保健医療の創設に努める。
        貴族院議員『佐藤亀八郎追悼録』に寄稿。
  「佐藤翁を憶ふ」(常磐木学園高等女学校校長・佐藤病院長・医学博士 佐藤幸三)            
    ――― 翁との初対面は中学校に入学した当時、翁はいつも童顔に微笑を湛えておられた ・・・・・・ 学位を受けると翁は、お前の祝賀会をするから、ぜひ出てこい
 ・・・・・・ 国民精神総動員の今日、凡ゆる方面に身を以て範を垂れ、青少年に自分の体験による多くの生きた教訓を与えてくれた・・・・・・

 1944昭和19年3月25日発行『日本医事新報』1120号記事・写真Photo
―― 時の問題を訊く(その二八)「国民健康保険
 宮城県医師会長 佐藤幸三氏談 ――

   ・・・・・・ 「例えば、各地に国保懇談会の類を開催して、どんなに忙しい中からも時間の無理算段をして、医師会から必ず誰か出かけて行き、組合側の人々と膝を交えて語る。国保とはこういうものだ、だから、こうあらねばならないと、誰にも得心のゆくように説明する。その上でまだうまく行かない点があったら、それは本当に理解が徹底していないのだから、再び懇談会を開く。こうして吾々は村々に対し虱つぶしに根気よく働きかけている」
 東北人一流のネバリである。そしていいと思ったら実行する内田(農商大臣・内田信也)主義の実践である・・・・・・

 1945昭和20年7月10日、仙台空襲。 8月、敗戦
 1946昭和21年、県医師会会長を辞任。      
 1948昭和23年、仙台市公安委員。
 195025年、仙台市公民館長健康保険宮城第一病院長などをつとめる。
 1952昭和27年7月、迎光園健康保険仙台療養所所長。内科、外科の2科で発足。
 1955昭和30年、仙台ロータリークラブ会長
 1959昭和34年6月13日、親友の阿部哲男(当時県医師会長)とゴルフ競技中、心筋梗塞で死去。70歳。

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