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2018年9月22日 (土)

ポーツマス条約を結んだ外交官、小村寿太郎 (宮崎県)

 先日、卓球教室が終わり着替えようとしたら、「スパーリングコーチが来る日だけど残らないの?」 「これから国会図書館に行くから帰る」といったら、「あそこはコピー代高いね」という。まさか卓球場で国会図書館の話が通じるとは、うれしくなって話し込んだ。
 聞けば、彼女の職業は司書で仕事柄もあってよく利用するという。本に囲まれる仕事でいいわねと言ったら、職場の図書館には専門書しかないという。でも、本に関わる人とは仲良くしたい。彼女とのラリーもっと楽しもう。

 さて、国会図書館へは『日本医事新報』を閲覧にいった。“日本人で初めてフィギュアスケートをした病院長、佐藤幸三”http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2018/09/post-7eb5.html のためである。その記事は昭和19年3月25日、まさに太平洋戦争さなかである。
 年表をみると、3月は大本営インパール作戦開始、6月、日本海軍はマリアナ沖海戦で空母・航空機の大半を失う。日本は次第に追い詰められ、昭和20年の敗戦に至るのである。
 日本の近代をここで区切る説があるが、終戦の年からさかのぼる51年前、明治27年日清戦争があった。そして日露戦争、第一次世界大戦、太平洋戦争と戦争続きであった。それに比べると戦後は70余年も平和が続いている。考えるまでもなくこれはすごく尊いことなのだ。この先も続くよう大事にしなければならない。

 ところで、日露戦争について歴史書や小説がたくさんあるが筆者は戦いよりも、ポーツマス条約・小村寿太郎、日比谷焼き討ち事件、与謝野晶子などが思い浮ぶ。
  “本ほんご本:大山捨松/大塚楠緒子/与謝野晶子/茨木のり子” http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2009/08/post-1849.html

              小村 寿太郎

 1855安政2年9月16日、日向国飫肥(おび、宮崎県日南市)藩士、小村寛平・梅子の長男に生まれる。6人兄弟。
    父は飫肥藩の専売を扱った産物方であった。廃藩後、飫肥商社として社長に迎えられた。経営は順調であったが、西南戦争後、利益金をめぐって対立がおこり訴訟に発展した。社長の寛平は被告となり訴訟費用など借金が残り、その借金は子の寿太郎にのしかかった。そして寿太郎自身の借金もあり赤貧にあえいだ。

 1861文久元年、六歳から14歳まで*飫肥藩の藩校*振徳堂で学び、剣術の稽古にも励んだ。
    *飫肥藩:日向宮崎郡におかれた5万1千石の藩。関ヶ原の戦には徳川方について本領安堵され、以後廃藩置県に至る。
    *振徳堂: 開校と同時に学者・安井滄州・息軒父子を迎えた。安井息軒は1838天保9年、江戸にでて麹町に三計塾を開く。ここから谷干城・品川弥二郎・陸奧宗光らがでて維新政府で活躍した。
 また飫肥藩の小倉処平が人材育成を図り、小村は小倉の貢進生制度により大学南校を目指した。
 ところで小倉処平は西南戦争がおきると飫肥隊を組織、西郷軍に加わったが敗れ自刃した。

 1868明治元年、13歳。寿太郎は小倉に従い長崎へおもむき到遠館でフルベッキに英語を学ぶ。しかし、到遠館が閉鎖されフルベッキは大学南校の教頭になった。ついで、小村も上京する。
   宮崎から長崎へそして東京へ向かったわけだが、飛行機はもちろん鉄道もない時代だから船に乗ったのだろうか。考えてみると、九州から江戸あらため東京に行くには時間も費用もたいへん、よほどの強い決心がいる。しかし、家柄や身分に拘束されず羽ばたける時代がきたのである。 1869明治2年、大学南校をめざしたが薩長土肥の雄藩の学生で満員、入学できなかった。そこで、いったん東京早稲田にあった山東一郎の北門社新塾に入り英語を学ぶ。

 ――― 旧高松藩下屋敷即ち今の大隈会館の所に、紀州藩士山東一郎(直砥)の開ける明治義塾なるものがあった。山東は素と剣客で、兼ねて計画の才に富み、牛乳の搾取販売、活版印刷、築地のホテル開業など、孰れも彼の創案に係わりしものと聞く。明治義塾(北門社新塾)は当時英学を以て新帝都に鳴り、故林董伯の如きも、一時同塾に雇われて英語の教師をやったこともある。そこで笈を此処に置いたが、間もなく大学南校に欠員ができたので小躍りして之に転じた。(“『明治の一郎 山東直砥』”
http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2018/03/post-375c.html )

Photo 1870明治3年、大学南校(東京大学)に入る。
     その後、最初の文部省留学生としてアメリカ・ハーバード大学へ入学、法律を学ぶ。
 1880明治13年、帰国。司法省に入る。
    大坂控訴院裁判所判事。大審院判事などを務めるが上司と対立して辞職。
 1884明治17年、外務省に移る。外務省権少書記官
 1888明治21年、翻訳局長。
    井上馨外相、大隈重信外相の条約改正案に反対する。
 1892明治25年、湯島新花町に転居。元書生が訪れると
 ――― 門はあった。門の扉はなかった・・・・・・ 塀も、門も、家も、余程の苦労を経ていたらしく見えた・・・・・・まるで荒屋同様に見えた。これに住むは鼠と択ぶ所はない(鼠ぐらいのものである)と思われた。
 このとき小村は赤貧にあえいでいた。役所通いも、羊羹色に色あせたフロックコートで住ませていた。

 1893明治26年、陸奧宗光外相に見出され、清国公使館一等書記官として北京に赴任。
 1894明治27年、日清戦争。開戦とともに第一軍管民政長官をへて政務局長に就任。
    同年7月、日英通商条約調印。安政五カ国条約以来の不平等性を打破し、法権を回復した最初の改正条約締結に尽力したのである。
 1895明治28年、朝鮮、弁理公使。
    右の写真はハーバード大学時代。よく見かける小村の肖像と雰囲気が違う『宮崎県の歴史』掲載の一枚。この年、小村は腸チフスを患い容貌が一変したという話が頷ける。

 1896明治29年、外務次官。
 1898明治31年、アメリカ特命全権公使
 1900明治33年、ロシア特命全権公使。    
 1901明治34年、全講和会議権委員として、北清事変議定書に調印。
    同年から明治39年まで第一次桂内閣の外相となり、軍備拡充・鉄道国有化、中国朝鮮における鉄道敷設など帝国主義政策の推進を主張する。
 1902明治35年、日英同盟を締結してロシアに対抗、英米協調、大陸発展を企図する。

 1904明治37年、日露戦争。小村は開戦外交を指導。
 1905明治38年、講和全権委員としてポーツマスに赴き、日本の戦闘能力がほぼないという困難な状況下で、ロシアの全権ウイッテと交渉。日本に有利な条件を獲得したが、国民の不満をかう。
    日比谷焼き討ち事件: ポーツマス条約調印当日、11月25日東京日比谷公園で開かれた講和反対国民大会の民衆が起こした暴動事件。翌日、東京に戒厳令がしかれた。警察施設が襲撃され、余波が全国に波及。のちの民衆運動の先駆けとなる。

 1906明治39年、駐英大使。
 1908明治41~1911明治44年、第二次桂内閣の外相。
 1911明治44年、条約改正により関税自主権の回復に成功。
    11月26日、結核療養のため滞在していた葉山の別荘で死去。56歳。   

   参考: 『宮崎県の歴史』1999山川出版社 / 『宮崎県の歴史散歩』2006山川出版社 / 『日本史辞典』1908角川書店

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コメント

本がお好きで、日本の近代史にとてもお詳しいんですね!
わたしも歴史は好きなのですが、どちらかというと世界史なので、新鮮でした。
昔に生きた人の人生に自分を置いてみると、違った角度や視点からその当時の出来事をみれたりしますね。そのような楽しみ方をされているのかなと思いました。
わたしも聖書を愛読していますが、読む時にそのように読むように心がけています!同じように歴史を楽しまれている方にお会いできて嬉しいです。
今回に記事には、『日本の近代史を振り返ると、戦後70年平和が続いていることは驚くべきこと』とありました。歴史を振り返って、今の時代がどんなものなのか考えるって大事ですね。わたしもその視点も大事にしながら、聖書を読んでいて、今生きてる時代が本当に特殊な時代だということを知りました。それでそのことについてみなさんにシェアするボランティアをずっとしていて、その中でたくさん良い出会いもありました。今回は中井さんのようなアクティブで祖母と同じ趣味をお持ちの方に偶然にお会いできて、とても嬉しく親近感でした!
せっかくブログを拝見しましたので、足跡を残させていただきたいと、コメントさせて頂きました。不安定になりながらも確実に秋になって来ていて、温度差がすごいですね(>_<)どうぞご自愛ください(^^)

投稿: keep smile | 2018年10月 6日 (土) 20時47分

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