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2018年11月10日 (土)

会津藩教育の沿革を著した、小川渉(福島県)

  いま楽しみにしているのは若い友だちと映画「赤毛のアン」を観に行く約束。幾つになっても「赤毛のアン」というだけで気分は女の子。夢見るアンも好きだけど、失敗しては悔やむアンも愛おしい。自分も反省してもまた失敗しちゃうから。そう、やってしまった。
 歴史の記述で数字を間違い焦っている。このほど出版した増補版『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』を会津の方に贈ったところ、
 ――― 斗南への移住者数は、家族を含めて4.322戸:17.327(ウイキペディア掲載)―――と御注意、併せて資料「斗南藩移住者名簿」を教えられた。 さっそく増補版『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』 斗南藩[移住と離散]を開くと
 ――― 「斗南には2800戸、11万5千人余りが移った」。
 あせって10年前の資料を見返すと2800戸はよいが、11万5千人はいかにも多すぎる。
 指摘に感謝しつつ、『新訂 会津・斗南藩史』(1992葛西富夫)を参考に訂正したい。
    p84後から5行目: 115,000人余り ―→ およそ17,300余人

 修正の参考に会津の本を見返すうちに、会津人はとても教育熱心と感心した事を思い出した。戊辰戦争さなかでも若者を選抜して、江戸から会津に来た沼間守一に英語・フランス語を学ばせている。
    沼間守一: のちジャーナリスト、政治家。当時は幕府の陸軍伝習所に入り、西洋式兵術を学び、戊辰戦争には幕府方について戦い、会津に来たのである。
 柴五郎少年も斗南に移住後、食べるのにも事欠いていても雪道を裸足でかけて学問所に通った。そうした努力は明治日本で道を開く力となったのである。
 会津の教育者として*南摩綱紀、*秋月胤永(悌次郎)など有名だが他にもいる。その一人が公議正論の、小川渉である。
    “会津藩士のカラフト、明治の教育者・南摩綱紀(福島県)”
   http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2012/12/post-4b87.html
    “神のような人、秋月悌次郎(福島県会津・熊本)”
   http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2012/06/post-4de8.html
 

            小川 渉   (おがわ わたる)

 1843天保14年、小川常有の次男として若松城下で生まれる。幼名は徳治郎、号は外浦、雲仏など。
   ? 年、 藩校・日新館で学ぶ。
 1865慶応元年、藩命をうけて江戸・昌平黌に学ぶ。
 1867慶応3年11月、*平山省斎(図書守)に従い、朝鮮に行く命を受け出発した。しかし、京大阪の辺で鳥羽伏見の戦いに遭遇する。そこで、町田伝八に属して従軍する。
     “ペリー、プチャーチン応接係、維新後は神道:平山省斎(福島県)”
   http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2014/05/post-d7d6.html

 1868慶応4年、東軍敗退の後、新潟・米沢・庄内・会津の間を奔走し武器弾薬の買い入れなどに当たった。
    9月、明治と改元。28日、若松城開城。このとき小川は新潟にあった。

 1869明治2年、松平容保に代わり、容大が陸奧3郡を中心に斗南藩3万石を興す。
 1870明治3年、小川は戊辰戦争後この年6月まで小川はオランダ人・カステルの家に潜み英学・蘭学を学んでいた。そして西洋の事情を研究、かたわらイギリス人、*アーネスト・サトウに日本語を教えた。
   *アーネスト・サトウ: Satow イギリスの外交官。薩長など藩幕派の志士と交わり、パークス公使を助けて活躍。会津藩の京都時代に*広沢安任らと交際が深かった。小川は広沢の後輩であるが開拓など意見を交わす間柄、外国人とも縁があったようだ。
Photo_2   “道の駅みさわ・斗南藩観光村、広沢安任 (青森県・福島県)”
   http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2016/08/post-dd86.html
   同3年7月、斗南藩きっての文章家といわれる小川は斗南藩の小属に任じられる。

 1871明治4年、廃藩置県。青森県に出仕、田名部支部長となって県政に尽力。
 1875明治8年3月、辞職。北斗新聞社(のちの青森新報)を起こして社主となる。
   ちなみに、小川は青森県新聞記者の第1号といわれる。「公議正論」をもって青森県民の啓蒙にあたった。自由民権運動のため、しばしば投獄されたが屈しなかった。
 「北斗新聞」「青森新聞」の写真が『北辺に生きる会津藩』に掲載されている。
 1880明治13年から18年まで、臨時青森県会書記を勤める。

 1883明治16年8月、「会津藩教育考草」第1稿なる。
    全7巻。天保14年~明治40年。会津藩主保科正之以降の会津藩教育の沿革を「会津五部書」『家世実記』など多くの書を基に記す。藩校日新館、町講所(庶民の学問所)、教育制度、教育功労者の略伝など年代を追って記述。上欄に南摩綱紀、秋月胤永、広沢安任の批評を標記(『会津図書館百年誌』より。同誌に表紙写真と広沢の序文の写真掲載)。

 1884明治17年、子の渙三(青山学院神学部卒、キリスト教牧師)生まれる。
 1881明治19年、長崎県尋常中学一等教諭となり、3年後に会津に帰郷。
    『会津藩教育考』の執筆中、大病を患う。

 1899明治32年、健康状態が小康を得ると、青森に居を移して日夜、執筆に励みようやく脱稿。小川はこの書を亡き旧藩主・容保の霊前に捧げて礼拝、
「我れ、これが為に生る。死すとも憾みなし」と述べたという。
 『会津藩教育考』は日本教育史の名著と評価され、680頁に及ぶ著作であるが、その遺稿は、1931昭和6年、東京大学出版会から発行された。
   ?年、晩年は青森で漢学の私塾を開く。
 1907明治40年2月5日、死去。享年64。

   参考:『会津人物事典(文人編)』小島一男1990歴史春秋出版局、写真も /『北辺に生きる会津藩』2008会津武家屋敷 / 『会津図書館百年誌』2004福島県会津若松図書館百年誌 /『新訂 会津斗南藩史』1992葛西富夫 /“シニアの情報誌「しるばにあっぷる」”https://aomorifs.jimdo.com/  

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2018.11.13
   メジャーリーグで活躍中の大谷翔平選手が、MLB ア・リーグ新人賞に輝き、世間の話題になっている。
 二刀流はベーブルース以来という。ベーブルースときいて、以前書いたブログを思い出した。興味のある方は以下ごらんください。

  “1928ワールドシリーズ、ベーブ・ルースと会った 河野安通志
  http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2013/12/1928-3d57.html   

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