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2018年12月 1日 (土)

明治のはじめ急進的改革へ、渦巻く反発と順応(熊本)

 平成の次の元号は何?と話題の2018年、“明治150年”を祝す側もあれば、“戊辰150周年”戦に敗れ苦境にあった昔を思い起こす側がある。薩長土肥×東北諸藩、それに加えて様々な藩や勢力が戊辰戦争を戦った。
 戦場となったのは、関東・東北・北海道函館などである。敗れて賊軍とされた者は、勝てば官軍と威張る者の下で明治を生きなければならなかった。他にも、思うに任せない厳しい現実に翻弄された者たちがいた。居住地が中央から遠く離れていたり、能力があっても縁故がないばかりに上に行けなかった者もそれだと思う。
 さて、遅ればせながら官軍、政府軍に従った九州熊本には疾風怒濤の10年が待っていた。急進的改革への反発と順応が渦巻いていた明治はじめの熊本、その当時をふりかえる。

 1868明治1元年、熊本は藩校・時習館を中心とした主流派の学校党・改革派の実学党肥後勤王党などが対立したまま明治維新を迎える。
 1869明治2年、 “ハーマン号沈没事件 (熊本 肥後藩)”
    http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2018/05/post-580a.html

 1870明治3年、細川護久熊本藩知事となり、弟の護美(長岡)と実学党による急進的な藩政改革を実施、教育面にも業績を残した。
    10月、古城医学校を開き、オランダ軍医・マンスフェルトを教師に招いた。

 1871明治4年7月、廃藩置県。
    9月、熊本洋学校を開校。西洋の文物技術を移入するためアメリカ人ジェーンズを招く。
        そのときのジェーンズ邸は熊本最初の木造洋風建築である。その後、官舎に利用され西南戦争のさいは、有栖川宮熾仁親王の宿舎にあてられた。
       “存立期間は短くも人材輩出、熊本洋学校(熊本県)”
    http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2016/10/post-3598.html

    12月3日、河上彦斎、朝憲(法規・国憲)をはばからず陰謀を企てたとして死刑となる。川上は熊本藩士の子で<人斬り玄斎>といわれ、佐久間象山を京都で暗殺した。

 1872明治5年、熊本県を白川県と改称。
       “白川県権令・安岡良亮の機知(熊本県)”
    http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2018/03/post-c3b0.html

 1873明治6年12月、熊本*鎮台の歩兵第一大隊の兵卒が暴動をおこす。
       “第六師団の街だった熊本(熊本県)”
    http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2017/10/post-f0a2.html

 1874明治7年、九州で最初の新聞、白川新聞の発行。
    2月、政府は琉球島民の殺害を理由に台湾出兵を決議。4月、歩兵第一九大隊が熊本を出発、台湾へ出兵。
    5月、中止を決定。
 1875明治8年4月、植木枝盛植木学校
     自由民権運動の理論的指導者・植木枝盛、宮崎八郎らが植木町に開設した中学校。民約論などを講じたが、県の補助を打ち切られ、同年10月廃校。
      6月、緑川製糸場を益城郡甲佐郷豊内村に創設。当時、大阪以西で唯一の機械製糸工場。

 1876明治9年、白川県を熊本県に改称。
          全国的に見て3番目の公選県民会を開設。
    4月、熊本県内に廃刀令布達。軍人・警察官以外の士族などに帯刀を禁じた。
     ちなみに当時の学校において、生徒と教員は別であるが、いずれも昇降口の上、間内に刀掛けがあり、そこに大刀を置き、小刀は腰に帯びて教室に入ったという。
 
    10月24日、神風連(敬神党)の乱
       旧熊本藩の士族170余名、廃刀令を不満として挙兵、城内に置かれた政府軍の熊本鎮台を襲った。鎮台司令官・種田政明らを殺害したが、鎮台兵のために鎮圧された。
 秋月の乱・萩の乱とともに新政府の開明政策に反対して起こした保守的士族の反乱は、明治政府にショックを与えた。たんなる不平士族の反政府暴動ではなく、よりイデオロギッシュな面をもつ点で、当時の熊本の一面を代表するものであった・・・・・・これらの渦が西南の役に結集し、明治も次の段階に入ってゆくのである(『物語藩史』明治の熊本藩)。

    このとき9歳だった徳冨蘆花は、襲撃のもようを兄の蘇峰が開いた民権私塾・大江義塾の中2階からおびえながら見ていた。のちに「恐ろしき一夜」として書き残している。 その教室として遣われた座敷と中2階が今も残っている(『熊本県の歴史散歩』)。

  
 1877明治10年1月~3月、熊本県下各地で農民闘争。処刑者3万人余。
    2月、西南戦争おこる。西郷軍、鹿児島を出発。
      19日、熊本城天守閣、炎上。22日、西郷軍先兵、熊本城下に進入。城兵との間に先端を開き熊本城を囲む。
旧学校党の池辺吉十郎(池辺三山の父)ら1300人をもって熊本隊結成。植木民権派は400人の協同隊、旧熊本藩士・中津大四郎40四人は滝口隊を、人吉の旧藩士100人は人吉隊、それぞれ組織して西郷軍に投じた。
社会的、経済的特権をつぎつぎ剥奪されていた士族たちは、西郷の陣営に投ずると否とにかかわらず、最後の希望を西郷によせていたのである。
 3月、田原坂で激戦展開。熊本城攻防戦は4月14日まで続いた。
  7月、戦乱のため休刊していた熊本新聞が再発刊。
 10月、熊本鎮台、熊本に凱旋。
     主戦場となった熊本は焦土となり、人心は荒廃し、莫大な被害を被った

   参考:『物語藩史』第8巻1965人物往来社 / 『新熊本市史』2003熊本市 / 『熊本県の歴史散歩』2010山川出版社 / 『郷土資料事典』熊本県1998人文社 / 『明治の熊本』熊本女子大学郷土文化研究所1985国書刊行会

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