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2019年1月12日 (土)

立山連峰を愛した地理学者、石井逸太郎 (熊本県・富山県)

 平成最後のお正月、汽車や電車でに出かけた人は多いでしょう。そのとき、つり革に掴まってても、座席にいても窓の外を眺められたらほっとする。それが化学者だと、目に入る山や自然は研究対象になり、成果を世のため役立てる。
 ――― 汽車や電車に乗るとき、必ず東向き窓ぎわの「立山の見える席」を選んで坐る人があった。その人は立山を熱愛した科学者・石井逸太郎博士。立山こそ石井のレーゾンデートル(存在理由)であった(会報『商工とやま』より)。
 石井逸太郎は熊本県の生まれだが、おもに富山県域の地理を探求した地理学者。九州人が北陸の山々にどのように導かれ好きになったのか、主に『日本地理学人物辞典』を参照してみてみる。

         石井 逸太郎  (いしい いつたろう)

Photo
 1889明治22年、熊本県玉名郡南関町で生まれる。
 1909明治42年、熊本県師範学校(のち熊本大学)卒業。熊本高等小学校*訓導となる。
    *訓導: 明治6年以来、小学校正規の教員の職名。

   ?年、 東京高等師範学校(東京教育大学、のち筑波大学)本科地理歴史部に進学。氷河地形研究をする大関久五郎に感化される。
 1917大正6年、卒業後、岡山県児島郡(倉敷市)の女学校に奉職.。

 1918大正7年~20年、京都府立第二高等女学校(のち朱雀高等学校)教諭。
    下田礼佐(れいすけ)と共著『参考 日本地理』を刊行。内容は、第一次世界大戦直後における日本の地理。
 「緒論」: 日本が世界の五大強国(英米仏日伊)の一つになったと述べる。
 「本論」地方(関東・奥羽・本州中部・北陸・近畿・中国・四国・九州・沖縄・台湾・北海道・樺太・朝鮮)ごとに地文(地: 形、海洋および海岸線、気候)と人文(住民、政治、産業、交通)についてまとめた。好評で大正13年までに5版を重ねた。

 1920大正9年、31歳。東京帝国大学理学部地理学科に入学。山崎直方に教わる。
 1923大正12年、卒業。長崎県立長崎中学校(のち長崎西高等学校)教諭となる。

 1925大正14年、富山高等学校(のち富山大学)教諭兼教授。地理学の講義を担当。
    地理学の講義をするかたわら、毎年立山連峰に登攀し、氷蝕地形の研究を行う。
    石井は富山市永楽町に住居を構え、蓮町の高校への通勤の往き帰り、立山連峰の雄大な姿を見ても見ても飽きなかった。

 1930昭和5年、文部省より欧米各国に留学を命ぜられる。
    スイスのアルプス山地とノルウェーを旅行し、現存の氷河地形と氷河が後退した後の地形を比較研究した(現今、温暖化により氷河が後退して大きな問題になっているが、石井はその研究の魁か)。
 1931昭和6年、帰国。小寺廉吉らとともに富山地学会を組織する。

  ?年、 富山県の魚津漁港で原生林の遺蹟が発見され、その周辺の地層を精査。それが地盤沈下による埋没林とみなし、類似の現象を富山湾岸で発見。湾内と内陸部の地形を研究、のちに学位論文「北陸汀線の移動について」となる。
    小川琢治の信州調査旅行に同行し、その研究方法を学んだ。

 1943昭和18年、論文「立山連峰の氷河作用‐特に山崎圏谷に就いて」を発表。

 1945昭和20年、氷河地形としては初めて国の天然記念物に指定させる契機を作った。
   石井の恩師・山崎直方博士は、立山雄山直下の窪みが氷蝕地形であることを発見した人。その高弟として、立山連峰の圏谷(カール)群など現地精査し、日本の氷蝕地形研究に貢献。カールを発見者の名によって山崎圏谷と名づけ、石井は氷河地形として日本最初の国の天然記念物指定に持ち込んだ。
  
 1947昭和22年、退任。富山市立芝園中学校長ついで富山県神通中学校長兼富山県立中学校長。
     昭和天皇の北陸巡幸にさいし、「富山県の地理」について進講。
    
 1948昭和23年、富山県立富山女子高等学校長兼富山県立雄峰中学校長、さらに富山県立滑川高等学校長となる。
 1949昭和24年、富山師範学校講師。
    写真:夕映えの剣岳(『剣岳地名大辞典』佐伯邦夫2012立山カルデラ研究紀要第13号より)

Photo_2 『富山県新誌』を刊行。
    通常の地誌的記述をせず、石井が構想する「越中地人論」 
  ――― (石井の)山岳家として愛山家としての一面から、立山連峰の自然を詳述し、「自然が文化に及ぼす影響」に論及している。そこには富山地学会会員の研究成果もとりいれられている。
    
 1950昭和25年、新制の富山大学教授(教育学部)に就任。地理学を担当。

 1955昭和30年8月、立山連峰の氷蝕地形に関する研究を続けていたが、立山剱沢で氷河地形調査中、雪渓の裂け目から誤って滝に転落、壮烈な死を遂げた。
 他県の出身でありながら、立山に魂を打ち込み、富山に骨を埋めたのであった。 享年66歳。
   11月、功績を評価されて富山県文化賞文化特別感謝状を授与される。

    参考: 会報「商工とやま」平成15年7月号・廣瀬誠   / 
立山と富山(22) / 『日本地理学人物辞典 近代編2』2013原書房、肖像も。

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   2019.1.11毎日新聞記事

 熊本市和水町出身のマラソン選手、日本人で初めて五輪出場した金栗四三の「いだてん」記念館開館。
 和水町は1月3日の地震で震度6弱を観測。学校施設や文化財に被害が出たが、ミュージアムと築200年を超える金栗四三の生家は無事で開館できたとのこと。

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