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2019年1月19日 (土)

明治大正日本の清きエンジニア、廣井 勇(高知県、北海道)

 1月17日、【阪神大震災24年 平成最後の祈り】(毎日新聞2019.1.17夕刊)
 ――― 6434人が犠牲になった阪神大震災・・・・・・各地で追悼行事が営まれ、鎮魂の光や演奏の中で静かな祈りがささげられた。残り3ヶ月余りで幕を閉じる「平成」は東日本大震災2011や熊本地震など大災害が相次いだ時代だった・・・・・・
 世の中、さまざま事物発達してとても便利になった。しかし、時として大きな自然エネルギーに打ちのめされる。被災地の状況でも知られるようにどんなに頑丈な建造物でも、嵐の前にひとたまりもなかったりする。
 しかし、災害に負けない土木事業のために身を削り努力惜しまない技術者が昔も今も存在する。その人々は高い技術と強い志の持ち主で、その代表が廣井勇といえそう。外国人技術者に頼っていた明治期、日本の近代港湾技術は、廣井勇をえてようやく世界の水準に達することができたとまで言われる。

         廣井 勇  (ひろい いさみ)

 1862文久2年9月2日、高知県土佐国高岡郡佐川村、廣井喜十郎の長男に生まれる。姉一人。幼名は数馬。幼くして父を喪う。
 1872明治5年、叔父の明治天皇侍従・片岡利和に連れられて東京に向かい、片岡家の居候として玄関番を勤めながら私塾に通う。
 1874明治7年、東京外国語学校(校長・辻新次郞)英語科に入学。生徒の中に、内村鑑三・加藤高明・*佐藤昌介・宮部金吾らがいた。その後、廣井は理工系の工部大学校予科へ転学する。

    “北海道大学育ての親、佐藤昌介とその父、佐藤昌蔵(岩手県)”
     http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2014/10/post-ae0c.html
  

 1877明治10年、九州では西南戦争さ中であったが札幌農学校では官費生を募集。廣井は第二期生10人の最年少で合格。同期は内村鑑三・新渡戸稲造ら俊才が多かった。ちなみに、第一期生中の黒岩四方野新之進は作家ジャーナリスト黒岩涙香の実兄。
    クラークの任期は一年、実質的に8ヶ月に過ぎなかったが、その間学生、一期生を一人一人指導した。廣井ら二期生は直接指導を受けることはなかったが、クラーク教授「少年よ大志を抱け」の精神にふれた。そしてアメリカ人宣教師から、キリスト教の洗礼をうけた。「イエスを信ずる者の契約」に署名し、基督信徒となった。

    クラークの次に学校をしきったのはホィーラーという数学・土木学の専門教師で、農学校の事はいうまでもなく鉄道選定、道路見込などに従事したり実践的な理論に通じ、廣井に大きな影響を与えた。
 1881明治14年7月、農学校の中央楼上に大時計が据え付けられた。設計は数学と土木工学を担当するホィーラーであった。彼の功績はクラークに勝るとも劣らないが、その影響をもっとも受けたのが廣井であった。そして二期生10人とともに卒業。
   廣井は卒業と同時に開拓使御用掛となる。御用掛(官僚見習・幹部候補生)。
   開拓使鉄路課に勤務、北海道最初の鉄道 小樽――幌内間の工事に従事する。

 1882明治15年2月、開拓使が廃止され、工部省所属となり東京に移る。
    同年3月、鉄道局勤務を命じられ、日本鉄道会社(私鉄)が初めて手がける上野・高崎間の鉄道敷設と橋梁の設計施工に参加することになった。
   廣井は赤羽と川口を隔てる荒川をまたぐ鉄橋の設計と架設を担当することになったが、アメリカ留学の望をもち、費用も貯めていた。

 1883明治16年12月10日、依願退職し渡米のため横浜を出航。21日間の船旅の後、サンフランシスコに到着。ミシシッピー川改修事業の現地本部に出向き、現地の事務所で働き、改良工事や橋梁の設計に携わる。
 廣井はローノーク市の高台に立つ古風なシティホテルに宿泊し、寸暇を惜しんで働きよく勉強した。また、暇をみつけて英米やドイツの文学作品を愛読した。ちなみに、高知県出身の廣井は叔父をはじめとして政界その他に繋がりがあったが、あえてそれらを利用しなかったのである。

 1887明治20年、在米のまま札幌農学校工学科助教授に任じられ、以降の給与・海外滞在経費は学校から支給される。農学校幹事の佐藤昌介らの計らいであった。
    アメリカからドイツへ留学。ヨーロッパ各国の土木事業を視察する。
 1888明治21年、橋梁実務図書Plate Girder Cnstruction.(プレート ガーダー コンストラクション)をアメリカで刊行。当時のアメリカ土木界に与えた衝撃は小さくない。ただし、刊行のとき廣井はアメリカからドイツに渡っていた。
    ドイツではカールスルーエの工科大学で土木工学・水理工学などを学んだ。ついでシュツットガルトの工科大学で土木工学を研究、学位を授けられた。その後、三ヶ月間ドイツ・フランス・イギリス各国を歴訪して土木事業の現場を視察した。
 1889明治22年6月、帰国。札幌農学校教授となり北海道技師を兼ねる
    教授として河川・港湾・鉄道・道路・橋梁そのたの土木工学を担当した。
 1891明治24年、大井上綱子と結婚。廣井30歳、綱子21歳。洋館を建て、若い後輩を居候させ育てながら10年間暮らした。
 1894明治27年、日清戦争はじまる。

 1895明治28年、政府は小樽築港のための経費を計上したが、仙台湾、野蒜築港の失敗もあり困難が予想され、廣井は初期段階から現地調査に参加した。
    野蒜築港: 東北開発事業として明治11年着手。政府は事業公債を財源として内務省土木教長技師長のオランダ人に事業を一任。明治初頭の東北開発の夢だったが明治十七年の台風で防波堤が破壊されて船舶の入港が不能となり事業は中止されたのである。

Photo 1897明治30年4月、小樽築港事務所長を命じられる。廣井は常に第一線に立ち、請負人が行う以上に細かい作業まで徹底的に工夫、改良段取りを考案した。尊大ぶらず権威主義とは遠かった。

 1899明治32年9月、東京帝国大学工科大学教授に転任。
 1904明治37年、日露戦争が勃発し小樽築港予算が大幅に削られ、工事の進捗がとまり完成まで11年の歳月を要することになる。

 1908明治41年5月、大工事が竣工。
    経費節約の努力が実って予算1万余円を余す。竣工式のおりには式典に先だって会場にあてた防波堤上に自費で、シャンペン、赤飯、小料理の折詰を用意した。これらのエピソードをはじめ、工事の状況、廣井のリーダーシップなど伝記『廣井勇の生涯』に詳しい。    

    同年7月、政府から欧米視察を命じられ横浜からアメリカ・シアトルに向かう。
 1909明治42年、ニューヨークからイタリアに向かう。前年、イタリア南部を襲った大地震の被災地を視察するためである。廃墟となったメッシナの街の惨状をみて、日本での津波対策を急ぐことを痛感した。次いでフランス・ドイツ・ベルギー・オーストリアを回って帰国。

 1909明治42年、わが国最初の鉄筋コンクリート製・広瀬橋を設計。
      “第5代仙台市長はもと幕府の旗本、和達孚嘉 (宮城県/静岡県)”
       http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2018/11/post-4d60.html

 1910明治43年4月、廣井の設計により箱館港の拡張工事(~大正8年)が起工される。
    同年10月、栃木県鬼怒川水力電気工事(ダム建設事業)を手がける。工事は明治44年に始まり大正元年完了。
 1911明治44年、鉄道院の嘱託として関門海峡大橋架設の設計に従事。

 1915大正4年5月~翌5年10月、東京府知事の要請により、六郷と千住の公道橋の設計を行う。この大橋梁の設計施工には門下生も多数参加させ現場で指揮をとった。
        “猪苗代水力電気株式会社(福島県)”
       http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2012/04/post-1d8d.html

 1919大正8年、退官し名誉教授となる。
 1920大正9年11月、文部省があらたに設置した学術研究会議会員に任命される。

 1921大正10年、中国上海港改良技術会議に出席。英・米・仏など世界6カ国から派遣された委員のずさんな浚渫計画案の誤りを、自らの調査データを根拠に指摘、実行を保留させた
    ――― このエピソードからも彼の人間としての良心を貫こうとする強い意志が感じられる。特に港湾の事績は大きい(「港をつくる」竹内良夫・著)
    この頃から、内村鑑三との交流が復活する。
    還暦の祝賀として友人・知人、門下生から送られた祝い金8000円のうち、3000円を母校の北海道帝国大学工学部に、残り5000円を土木学会に奨学金として寄付した。
    
 1923大正12年9月1日、関東大震災。
    10月、政府は帝都復興院を設立し、廣井は評議員となる。とくに隅田川に6つの橋が架けられるたびに現場に出かけ、設計者や監督者を激励した。

 1927昭和2年、『日本築港史』は技術者のバイブルともいうべき名著。
 1928昭和3年10月4日、急性狭心症に襲われ、死去。享年67。
    親友の内村鑑三が弔辞を献じた。
    「廣井君在ありて明治大正の日本は清きエンジニアを持ちました」
 墓地は東京多摩例年霊園。廣井没後1年目、小樽公園に「廣井勇博士胸像」が建つ。
 東京帝大卒でない廣井は、帝大の権威主義や立身出世主義に批判的だった。また、学閥の逆風に耐え続けた。その信条は「技術者は生きている間に心ゆくまで働き、しっかりした仕事を残さねばならない」

    参考:『山に向かいて目を挙ぐ・廣井勇の生涯』高崎哲郎著2003鹿島出版会 / 『東北地方における土木事業近代化の先覚者像』1996社団法人東北建設協会

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