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2019年2月16日 (土)

世界的な植物分類学者、牧野富太郎(高知県・東京都)

 先日、東京にも雪が降り、たいして積もらなかったが木や草にふんわり。水仙の花にも雪がかぶさったが細い茎は折れずにしゃんとして健気だ。水仙が野の花か分からないが、昔から温室育ちの花より野草が好き。50年昔の中学生時代、理科の先生に勧められ植物の観察日記をつけていたからかもしれない。
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 登下校中や遠出をしたりして採集した植物を新聞紙に挟んで押し花をつくった。植物の名を調べ、丸ペンをつかって図も描いた。その大事なノートを頼まれて貸したら失くされ、何十年経っても残念でならない。
 まあそれはさておき、植物に興味をもつと同時に牧野富太郎という植物学者の名を覚え、描かれた植物が精妙で、きれいなのにも感心した。たまに展覧会の図録を見返すが飽きない。牧野は図を描くため、精密な線がかける蒔絵筆という漆芸にもちいる特殊な筆を用いたという(<牧野富太郎小伝>小松みち・高知県立牧野植物園牧野文庫司書)。
 この牧野小伝は2001年<牧野富太郎と植物画展>の図録にあるもので、実際に富太郎の原図をみて研究している人ならではの記述、あらためて牧野富太郎に魅力を感じた。以下、その多くを引用させてもらった。

         牧野 富太郎 

 1862文久2年4月24日、土佐国高岡郡佐川村(高知県佐川町)の造り酒屋に生まれる。
    生まれ故郷の佐川からは小樽運河をつくった廣井勇ら人材が輩出している。
     “明治大正日本の清きエンジニア、廣井 勇(高知県、北海道)”
    http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2019/01/post-f35d.html

 1865慶応元年、3歳のとき父の佐平が死去。
 1867慶応3年、母久寿、翌4年、祖父も死去。以後、祖母に育てられる。
 1872明治5年、寺子屋、ついで伊藤蘭林の塾で四書五経など漢籍を学ぶ。さらに藩校の支校・名教館で究理学・地理学・天文学など西洋の新しい学科を学んだ。
 1873明治6年、英語学校が開かれ、英語も学んだ。
 1874明治7年、村にできた小学校に入学。しかし、すでに私塾や藩校で学んでいたため、1年足らずで退学。その後は学校教育を受けなかった。
    そのため、のちに小学校出ながら、東大教授を上回る植物学知識をもつといった伝説が流布した。

 1877明治10年、15歳。請われて佐川小学校の授業生(臨時教員)になる。
 1878明治11年、江戸時代の蘭学者*宇田川榕菴の著作『植学啓原』の写本『植学啓原訳文』をつくる。
   『植学啓原』: 西洋の植物学を日本にはじめて紹介した本。富太郎はこの本によって、植物学の述語を知り、観察したことを図にする方法を学んだ。               
    “わが国初めてのガス灯、島立甫(岩手県)”
    http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2018/02/post-29e2.html

 1879明治12年、高知にでて、五松学舎に入塾するが、コレラが流行ったので帰郷。
    このころ、富太郎は高知中学校に赴任してきた永沼小一郎という教員と知り合う。
     永沼は英語が堪能で植物学に詳しかった。後年、富太郎は永沼について
   ――― 未だかつて先生ほど博識で精通な人を見たことがなく・・・・・・このような博識の人に邂逅することはあるまいと、追懐している。
 1880明治13年、このころの写生図、江戸の名残をとどめた本草風のギンリョウソウの図が残っている。

 1881明治14年、上京して上野の第2回内国勧業博覧会を見学、顕微鏡や専門書を購入する。また、農商務省博物局の田中芳男を訪ねる。田中は富太郎の植物への情熱と知識に驚き感心して植物園などを案内させた。
    富太郎は土佐へ帰るとすぐ、高知県幡多郡へ採集旅行にでかけた。
    ちなみに土佐は温暖多雨で自然に恵まれ植物の宝庫であった。
 1882明治15年、この頃から図は写生をかさね技法をみがき西洋的になっている。

 1884明治17年、東京に遊学する。東京帝国大学生物学主任教授・矢田部良吉に認められ、東大の植物学教室への自由な出入りが認められる。富太郎はそこで西洋の豊富な植物書・図譜に衝撃をうけ、富太郎の図は日本的なものと西洋的なものが融合した独特の写生画となった。
 富太郎は、「植物分類学の到達点を示す完全な日本産植物図鑑の作成を目ざし」あらゆる植物を採集し、正確な記述をつけ図を作成しつづける。

 1887明治20年、『土佐植物存真図帳』と題し冊子をつくる。
    2月、世界に学術論文をはっぴょうするため『植物学雑誌』を創刊。また、図を印刷するため、自ら*石版術をならった。
   石版: 石版石の面に石鹸と脂肪を含む材料で文字や絵などを描いて印刷する。

 1888明治21年1月、上京して「図篇」刊行の準備。
    
7月、ロシアのマキシモヴィチ送ってあった標本ジョウロホトトギスが「新種」という鑑定結果が届く。
    11月、『日本植物志図篇』を自費で出版。この第一集は講評で明治24年再版され、昭和の第12集まで全75図版からなっている。近代的な植物図の登場で植物学会デビューは成功したが、東大の矢田部教授も植物図説の出版を計画しており、教授との間で一波乱おきた。

 1890明治23年、東大植物学教室への出入りを差し止められ、富太郎は標本と文献をみられなくなった。植物分類学者にとって致命的であった。
 失意の富太郎は、そのころ発見した世界的な珍草食虫植物の「ムジナモ」を友人の好意により農科大学で描くことになった。ムジナモの図は『日本植物志図篇』12集に載せることができなくなり、昭和の『牧野植物学全集』刊行まで日の目をみることがなかった。

 1891明治24年、このころ生家の造り酒屋が倒産し、生活が苦しくなり、『日本植物志図篇』は第11集で中断する。しかし、富太郎は一介の書生として、土佐で発見した新種「ヤマトグサ」を発表するなど、新種の発見記載の魁をなし植物分類学の幕開けを飾った。

 1893明治26年9月、東大の矢田部教授に代わって松村任三教授となり、富太郎は東大植物学講座助手に採用される。この間、生家の財力がなくなり、結婚し子どもが生まれ生計が苦しかった。文献の購入、採集旅行、印刷代など借金がふくれあがり、いったんは土佐出身の三菱、岩崎家が始末をつけてくれた。
 そうしたなかでも『新撰日本植物図説 顕花及羊歯菌類部』(第1巻、第2巻/明治32~36)を刊行した。
 1894明治29年、日本の領土となった台湾に調査隊の一員として派遣される。

 1897明治30年代、各地でさかんになった教員対象の夏季講習の講師として、盛んに招かれるようになった。富太郎の豊富な知識と含蓄ある解説は人気が高く、各地から指導を請われたのである。

 1900明治33年、代表作『大日本植物志』を刊行。この出版は当時の日本の印刷技術の高さをも示した。
 1906明治39年、このときから6年間にわたり九州各地で連続して夏季講習会が開催され、その後、五島列島や屋久島にも調査に訪れた。採集した植物は宿所で深夜までかかって標本にした。
 1911明治44年、「東京植物同好会」を創立。会は戦後、牧野植物同好会と名称を変えて続いている。

 1928昭和3年、妻の寿衛が54歳で死去。元彦根藩士の娘だったが、明治維新後、家が没落した。富太郎との間に多くの子が生まれ40年ほどの結婚生活は苦労の連続であった。採集で危険な山歩きをする夫をいつも気遣っていた。
 富太郎は献身的に自分を支えてくれる寿衛が亡くなると、新種のササに「スエコグサ」と和名をつけて学会に発表した。
 1939昭和14年、辞任。自宅で研究を続ける。
 1940昭和15年、『牧野日本植物図鑑』(北隆館)出版。
    富太郎による植物名語源の考察、民俗、用途など広く植物の文化におよぶ説明がなされたこの図鑑は、現在も生き続け、幅広い層の座右の書となっている。

 1950昭和25年、学士院会員に選ばれる
 1951昭和26年、文化功労者。
 1957昭和32年1月18日、植物研究第一の生涯を閉じる。94歳9ヶ月。
    東京都名誉都民第一号となっていたため、葬儀は都民葬として営まれ、文化勲章が授与された。
    墓は谷中天王寺にあり、郷里佐川にも分骨された。
 収集した標本は、東京都牧野標本館に、文献資料は高知県立牧野植物園の牧野文庫に収められている。
                                                                              
   参考: 図録『牧野富太郎と植物画展』牧野富太郎小伝(小松みち牧野文庫司書)2001.3.14~4.8(高知県立牧野植物園編集・毎日新聞大阪本社) / 『民間学事典・人名編』1997三省堂

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