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2019年3月 9日 (土)

民権家のち私塾・公徳館を設立、小野徳吉(福島県)

 東日本大震災8年、もうすぐ3月11日。毎日新聞は福島第1原発の現状を写真と図で特集を組んでいる。福島県大熊町でヘリから撮影した写真には、廃炉作業が進められている1号機から4号機、その後に並ぶたくさんの処理水貯蔵タンクも写っている。
 この現状に大熊町民をはじめ生まれ故郷へ戻れない人々はどれほど切ないことか。
 会津若松に避難している大熊町の方々と交流、穏やかな方が多いと感じた。きっと、痛みを胸にしまって、今いる場所でがんばっているのだ。
 それにしても逆境の8年は長い。この先、どうか心が折れませんように。
         “福島原発事故・全町避難『大熊町 学校再生への挑戦』”
          http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2012/09/post-d1a3.html

 10数年前に訪ねた大熊町にステキな図書館があった。でも原発事故のため蔵書は一冊も持ち出せていない。大熊町は前々から読書がさかんで勉強に、楽しみに、本と親しんでいる。避難先の会津若松は教育熱心で知られるから、よい交流をしていそうだ。
 学問がさかんな会津は学者・教育者を輩出しているが、なかに自由民権運動から教育者に転身した人物もいる。明治維新のすぐ前に生まれた小野徳吉である。経歴は不明だが、国会図書館デジタルライブラリーで著作が読め興味深い。

         小野 徳吉

 1865慶應元年、福島県河沼郡湯川村北田(会津盆地の農村)、小野平兵衛の長男。
  ?年、十代にして会津自由党の指導者・中島友八に私淑。

 1882明治15年、17歳。自由党員となり、各地の演説会で弁士として活躍。
     2月、自由党会津部設置。会津地方にはじめて郡中心の政党ができあがる。

      国会開設の目標が定められるとともに、全国的に政党の結成が活発に行われた。板垣退助らは自由党を組織、中央部と地方部をおくことになり自由党福島部がおかれた。会津には花香恭次郎らが原平蔵らと連絡し、耶麻・河沼・北会津郡下を遊説し自由党会津支部が設置された。
 当時は、まだ政党の何たるかを知らない者が多く、その組織には困難があったが、喜多方には愛身社の組織があったので、耶麻支部がただちに組織された。
 南会津・大沼は辺地が多く、諸連絡が思うにまかせず、その組織には困難をきたした。
 河沼支部は小野徳吉・中島友八・生江貞八・島田又四郎などの手で組織された。
     4月6日、板垣退助が岐阜で刺客に襲われて負傷。見舞いのため瓜生直七を上京させた。瓜生は総会で報告し、ついで「東京紀行」と題して演説。
     4月28日、喜多方町東町の山中屋にて会津自由党の臨時総会。河沼郡より生江貞八・小野徳吉が出席し24、5名集まった。
 午後から、喜多方の出雲社で会津地方で初めての政談演説会が開かれた。
 小野は演説が得意だったようで、のちに『演説法』を出版している。

    11月、会津自由党員と農民ら数千人、警官と衝突(福島事件)。 
        小野の著述に、『会津自由民権史』(別名、自由党血涙史)があるが未見。蔵書にしている大学図書館があるので、折をみて閲覧したい。

          “自由党員たびたび保釈、安瀬敬蔵(福島県)”
       http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2016/04/post-cd63.html
     “田母野秀顕とその妻(福島県三春)”
       http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2016/03/post-2829.html

 1888明治21年、私塾・公徳館を設立。塾生1000名に及んだという。
   小野の著述、『予が見たる孔夫子』(明治45年)にその心境、気概が綴られている。 

  ――― 序言。予は労働者なり・・・・・・ 曽て徴されて兵営にあり、軍務の余暇、研鑽を続け、退営後郷に帰りて、家塾を興し、労働の余暇、自ら修めて、又、後進を啓発し、茲に20余年に及べり。日清戦役には、後備兵として、内地を守り、日露戦役には国民兵として、外征に従い、敢て矢石の間に立ち、万死の街に出入りはせざりしも、人生の惨苦は、具に之を経験して辱研に資せしもの極めて多し。
 曽て公命を奉じて、兵站線を巡り、遼東の野を跋渉すること数十里、到る所、聖廟の崇厳なるを観、関帝廟の宏麗なるに驚けり・・・・・・
 忠孝仁義を鼓吹して、農村子弟を督励し、以て、天恩の万一に報せんと欲す・・・・・・ 博引旁証、聖人の面目活躍せる後を承けて、労働者としての、予の孔夫子出づ、

 1894明治27年、日清戦争。後備兵。29歳。
 1904明治38年、日露戦争。国民兵として外地へ出征。39歳。

 1909明治42年、『演説法』を公徳館より発行。

   ――― 今や青年会は各郡村に勃興し、弁論修養の道到る・・・・・・ 後進を指導し演説法を講述せしこと数次、今その稿本を刊行して、刻下の急に応然とす・・・・・・
   内容、演説の定義・目的・演説案・演説の三要素(言語・音声・態度)ほかであるが、次は本文より抜粋。
   ・・・・・・ 我国はまだ演説の初歩であるから、完璧のものない。そこで我国演説の元祖、文明の指導者たる教育家としての故福澤諭吉翁・・・・・・学者としての外山正一博士、政論家としての井上角五郎君、宗教家としての大内青巒居士を明治演説界の四大家としてあげておこう
   ・・・・・・ 奥羽の「し」と「す」の区別なき言語は誠に聞きにくい、さればといっても、江戸っ子のベランメー言葉も感心しない

 ・・・・・・ 星亨君、君はいつでも、便腹を抱えて演壇の左にたち、右手を軽く机に触れ、左手を「く」字形にして、その豪宕(豪放)な弁は、抑揚破瀾こそ乏しけれ、滔々数千首、凡そ30分もしゃべったと思う頃、コップの水を一口呑んで、又説き起こす所、その雄弁といい態度といい、さすが一世の豪傑に相違なかった
 ・・・・・・河野広中君、敢えて雄弁というに非ず、学識に富めりというに非ざれども、謹厳なる態度、荘重なる弁舌は、自然に君が性情を発揮している、君演壇にたてば、満場の視線蝟集し、鷹揚迫らざる態度は、音吐大らさるも、威風四辺を払い、聴衆はよく傾聴するのである、兎に角君は当代の人傑だ、而して演説中は始終全身を現して居る。

 ・・・・・・ 田中正造君、怒号叫喚は、たしかに君の専売特許であるなど他に小室重弘・髙木正年・島田三郎・工藤行幹・田口卯吉・河島醇・末松謙澄・井上角五郎などの演説態度をとりあげ、遠慮なく批評している。同時人の目に映った姿として興味深い。

 ちなみに編集兼発行人、小野徳吉の住所は、福島県河沼郡勝常村大字三川字二城乙14番地。印刷所は若松市上一ノ町18番地。

 1910明治43年、『人間論』。以下も小野徳吉術・公徳館より発行。
 1911明治44年、『儒仏講和』
 1916大正5年、51歳。
     『国民道徳の原理』 宇宙・開闢・道徳之淵源・国体・忠孝・仁義・恭倹持己・博愛及衆・知識・修養・義勇奉公の11章からなる。

 明治維新2年前に生まれた人物の生き様として興味深いが、死去の年代など不詳。著作からみても多くの人々と関わりがあるのに、略伝すらないのは惜しい。

    参考: 『会津人物事典(文人編)』小島一男1990歴史春秋出版 / 『会津若松市・第6巻』1966会津若松市 / 国会図書館デジタルライブラリー

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Photo 『Smile Again』

 絵と文  七海久玲愛
 協力者  7名
 写真    大熊町HPより

 発行者  大熊町教育委員会
          〒965-0873
福島県会津若松市追手町2-41
電話 0120.26.3844(代表)
FAX 0242.26.3794 

 

 2019平成31年3月、大熊中学校から
 ―――私たちのふるさと
       大熊町をいつまでも忘れないで―――
と絵本が届きました。
 ページを開くと、原発事故の前の 豊かで楽しい生活、事故後8年にもなり今も続いている避難生活、そしてこれから先への想いが絵と写真と文章で構成されています。
 「また みんなの笑顔があふれる大熊町になりますように」
 健気な思いが伝わっってきます。
 
 素敵な色合いの絵、思いがしっかり伝わる文、折がありましたらご覧になってください。

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