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2019年4月20日 (土)

房総半島、富津の兵法家・漢学者、織本東岳(千葉県)

 春本番、アサリのスパゲッテイを食べながらふと、潮干狩りを懐かしく思い出した。自分が子どもの頃は千葉県の谷津に親戚や家族と行ったが、その後、内房臨海工業地帯の埋立がはじまり潮干狩りの場所は東京からどんどん遠くなった。孫たちは潮干狩りに東京湾アクアラインの木更津の先、富津に出かける。

 富津岬には潮干狩りのほかにも思い出がある。『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』の取材、会津陣屋跡を探しにいった。そのとき岬の先端にある「明治百年記念展望台」に上り、黒船が江戸湾(東京湾)に侵入するイメージを得た。東京湾の眺めはすばらしく、飛行機の窓からと変わらないくらい横浜や三浦半島が見えたからである。
 展望台で潮風に吹かれつつ、ペリーの黒船侵入を発見した江戸湾防備を命じられた白河や会津の藩士らが、急ぎ浦賀に向かって舟を漕ぎ出す様を想像した。

 当時の富津地域は、飯野藩(上総周准郡)・佐貫藩(上総天羽郡)・前橋藩(上野・群馬県)の領地、旗本の知行所や天領があった。戊辰戦争が始まると、江戸に近い富津も争乱に巻き込まれた。戊辰終結後、新政府軍に刃向かった者に処分があった。このとき新政府に
「幕臣は、ただ、その主のために戦っただけで罰すべきではない」と申し述べたのが富津の織本東岳である。そしてその意見は無駄ではなかったという。初めて聞く名で、どのような経歴の持ち主か見てみた。
 なお、戊辰戦後。富津の隣藩、諸西(じょうさい、木更津市)は、領地を放棄して抗戦、全国でただ一藩だけ取りつぶしになった。

         織本 東岳  (おりもと とうがく)

 1833天保4年11月28日、上総君津郡富津で生れる。家は代々の里正(村長・庄屋)。
    父・永世、祖母・稲村喜勢子。幼名・義太郎のち徳輔。諱・履道。字・坦卿。

    稲村喜勢子: 稲村緑珠尼喜勢子。飯野藩医・稲村君玉の妻。稲次真年の姉。
      国学を志し、江戸の岡田真澄について和歌を学び、国書および歌史にわたる著書がある。娘は織本永世に嫁し、その子が織本東岳である。喜勢子の遺稿は東岳が保存していたという。著作は「箱根日記」「鹿島日記」「綠珠歌抄」「安房日記」などなど。

  ?年、 江戸にでて、肥前平戸藩儒者・朝川同斎に学ぶ。
     水戸の藤田東湖は同斎を訪ねると必ず、好敵手の東岳と碁を囲んだ。東岳は東湖のほかにも当代の著名人と親交があった。

      藤森弘庵(天山) : 1799寛永11~1862文久2年  江戸。儒学者。
      塩谷宕陰 : 1809文化6~1867慶應3年  浜松藩。儒学者。別号を梅軒。
      林鶴梁 : 1806文化3~1878明治11年  武蔵。儒学者。藤田東湖と親交。
      中村敬宇(政直) : 1832天保~1891明治24年  江戸。啓蒙学者。
      南摩羽峰(綱紀) : 1823文政6~1909明治42年  会津藩、儒学者。

   ?年、 市川一学に兵法を学ぶ。
      これより数年間、江戸烏森、京都麩屋町で漢学や兵法を教えて富津に帰る。

 1867慶應3年、帰郷すると、砲台を守る前橋藩(厩橋藩、群馬県)の藩主に招かれ、教育方郡奉行心得となった。

 1868明治元年、*徳川撤兵隊の劫掠から村民を救う。
           撤兵奉行: 幕府は第二次長州征伐にさいし軍政改革を行い、持小筒組(砲兵)を改め、撤兵(さっぺい)と称し、1868年これを統括する撤兵奉行をおき倉橋但馬守があ就任した。
  徳川撤兵隊長・福田道長が兵数千人を率いて木更津に駐屯、東岳に共に兵を挙げるよう迫った。そのとき東岳は、
「共に兵を挙げれば軍需糧食が倍になる。備えが無く劫掠すれば憎悪怨恨、敵となる。表に義を唱うるも為すところ伴わざれば、官軍錦旗翻し軍規厳粛犯すところなくして至らば人心いずれに帰せんか」と説得。そして撤兵隊長に、今いる地は地の利を得ないとして、撤兵隊を真利谷に移動させ難を逃れた。さらに新政府の議定官に上書し、
「朝廷、大恩を賜いその主あるいは重臣を質とし、その他は悉く赦免せらるれば必ず恩に感じて報効を懐はん」そして
「一心戮力以て外侮に従事すべし」押し寄せる外国に備えるべきだとして奥羽諸藩の謝罪を願った。これは日本の特性と世界の情勢を深く考えた意見である(『富津市のあゆみ』)。

 1869明治2年、織本は上総飯野藩主・保科侯に招かれ、藩校.明新館の教授となる。
 1870明治3年10月、権大参事となり、ついで集議院(明治初年の議政機関)が開かれると、公議人に推された。
      集議院: 明治初期、政府の諮問に応じた議事機関。藩政改革案などを審議。明治6年廃止。

 1871明治4年、廃藩置県にあたり、*藩債が多く藩は言い出せなかったが、織本は政府に申し出てこれを償った。
     *藩債: 政府に肩代わりされた諸藩の債務。債権者は三都および、領内の豪商・豪農ほか外国人。廃藩置県後、政府はその処分に着手した。

 1875明治8年、修史局(官立の国史編纂所)の編纂委員を命ぜられたが、病のため辞し、家塾を設けて子弟を教育した。

 1892明治25年5月22日、死去。享年59歳。
    織本東岳の人となり。行い正しく信義を重んじ、気力剛健、城府(しきり・囲い)を設けず、故旧に厚く、恩は一生忘れなかった。
    著述、『東岳遺稿』「二方園歌鈔」「俗語集成」「鶏譜」「武辺秘事」のいくつかは国会図書館デジタルコレクションで閲覧できる。

      参考: 『君津郡誌』1927千葉県君津郡教育会編 / 『富津市のあゆみ』1983富津市史編纂委員会 / 『日本人名辞典』1993三省堂

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