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2019年5月11日 (土)

岩手県の近代産業の先駆、釜石鉱山田中製鉄所・横山久太郎

 令和元年5月の10連休明け。テレビは海外旅行を楽しんだ人を映していたが、イマドキ珍しくない。しかし、約150年前は限られた者しか行かれない一大事業だった。
 地位や金また学問知識に恵まれた者しか渡航できなかった。その最たるものが明治4年の岩倉使節団一行の欧米視察である。その苦心や成果は『米欧回覧実記』などでよく知られ、また随行員に光をあてたものもある。
 使節団員の一覧をみると著名な人物がいるので、それに気をとられ所属・出身地など気にしなかったが、よくみると偏っている。維新に成功した側と幕府の出身者が殆どで、東北は極端に少ない。岩手県出身は大島高任ただ一人。この不公平はおそらく「明治初年という時代のなせるわざ」、現代はそんなことはないと言い切れる人いるのだろうか。

     “釜石鉄山の基礎を築いた人、大島高任(岩手県)”
              http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2011/04/post-8322.html

 1727享保2年、仙台藩出身の阿部友之進が大橋(釜石市)で磁鉄鉱を発見。
 1857安政4年、大島高任がわが国最初の洋式高炉を築き、銑鉄の製造に成功。

 1880明治13年、国営の製鉄所を釜石に設立する事になり、鉱山方係官・大島高任に計画させ、国費250万円を投じ、ドイツ人技師ルイスを招聘し鈴子に建設。御雇外国人・機械はイギリスから輸入して完成した。
    大島高任が完成した大橋高炉から釜石まで13マイルの鉄道をしき、鉱石・燃料を輸送した。しかし、木炭燃料の供給が不十分で操業はうまくいかなかった。工部省が莫大な投資をしたが失敗。明治16年、廃山となる。

 1884明治17年、政府は、釜石鉱山および製鉄所を田中長兵衛に払い下げる。
   田中家は陸海軍の糧食関係の御用商人で、女婿の横山久太郎、技師長(官営時代の高炉操業主任)高橋亦助らをあげて再建にとりくむ。しかし失敗の連続であった。
 1886明治19年、高炉作業は失敗の連続であったが、49回目の精錬でついに成功。
 1887明治20年、釜石鉱山の払い下げを受け官営時代の用地、敷地、設備一切を手に入れ、釜石鉱山田中製鉄所を創立。岩手県における近代産業の先駆となる。
 1892明治25年、官営時代の高炉を修繕改築して好結果を得た。
    製品は陸海軍および鉄道局新橋工場などにおいて使用された。
 1894明治27年、日清戦争おこり、鉄の需要は増加、価格は高騰し利益を得る。

 

          横山 久太郎

 1856安政3年10月10日、静岡県遠江国山名郡久努村の農家で生まれる。
    かたわら畳表仲買を営んでいた。
    7歳の時、父が死亡。親戚に財産をとられ、母の実家で育てられる。
 1869明治2年、13歳。鉄物商・山田孫次郎商店で9年働いたが店が破産。
 1877明治10年、上京。東京市京橋区北紺屋町、田中長兵衛の店で働き認められる。
 1878明治11年、横須賀町支店支配人。造船材料品の外国直輸入と米穀業に当たる。
     当時、全国各種工業に使用される鉄材について、国産はわずかで外国から輸入が殆どで金が海外に流出していた。また、政府が釜石に製鉄事業を起こす計画を知る。

 1883明治16年、工部省釜石鉱山残務係りが、田中に払い下げの勧誘をする。
    田中と横山が釜石に出向き視察すると、
 ――― 広大なる溶鉱炉は炉中銑鉄凝結して大塊となり、諸機械は破損し、官宅、職工家屋など建造物は土地人民に払い下げ・・・・・・ 数百万円を投じて設置せられし大工場は震災後の市街の如く・・・・・・道路は破損し、これを見る者誰か落涙を催さざるものあらんや

 1884明治17年、払い下げをうけ、横山は現地で奮闘するも結果は前述のよう、なかなか結果がでなかったが諦めず努力する。
 1887明治20年、釜石鉱山田中製鉄所・所長として全山の管理を任される。
 1896明治29年、三陸地震津波
    死者2万7122人、流失・全半壊8891戸、船被害7032隻。罹災者救助のため四方に人を派遣して炊きだし、傷病者を収容し、構内錬鉄場に救護所を設けに医師を派遣した。
    田中製鉄所も社員160余名を失い、船舶建築物その他大きな被害損失があった。

 1908明治41年、三陸沿岸交通のため、三陸汽船株式会社創立。
 1909明治42年、釜石電灯会社を主唱す。
 1911明治44年、岩手軽便鉄道株式会社を主唱し、花釜鉄道を創設。
 1918大正7年6月、岩手県多額納税者側より推薦され、貴族院議員となる。
 1919大正8年、有志により銅像建設。
 1922大正11年3月3日、東京浅間台の別邸で死去。66歳。     

   参考:『横山久太郎翁伝』1943釜石製鉄所産業報国真道会編 / 『岩手県の百年』1995山川出版社 / 『郷土史事典岩手県』1982古川幹夫編 / 『郷土資料事典・岩手県』1998人文社

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