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2019年5月 4日 (土)

明治の気仙沼三兄弟、鮎貝盛徳・落合直文・鮎貝槐園(宮城県)

 令和元年5月の10連休、巷の空気は明るいような。自分も人並みに家族や友人と近場で楽しんだが、行きも帰りも電車は空いてた。旅行など遠出する人の多さと共に、いつも通り働く人が少なくないのを実感。“皆がみな良い”は難しい。せめて休日出勤、働く人に「ご苦労様」の眼差しをね。
 さて、明治・大正・昭和・平成そして令和まで5元号。更に遡ると安政・万延・文久・元治・慶應そして明治である。安政生まれの明治人は、5元号を生きたことになる。
 幕末、安政の前は嘉永で、ペリーの黒船来航があった。当時、年号はよく変わったから、鮎貝家の三兄弟(鮎貝盛徳・落合直文・鮎貝槐園)は7歳しか違わないのに、生まれた年号はみな違う。短い間に年号が変わったということは、困難な出来事が多く大変な時代だったのだ。
 ちなみに、鮎貝家の3男・槐園は、1864元治に生まれ慶應・明治・大正・1946昭和21年まで、5元号を生きた。

 さて、鮎貝家は戦国期には出羽国鮎貝城主であった。のち、伊達政宗に帰属、本吉郡で千石取りの重臣で明治維新を迎える。その居館、煙雲館庭園は現在国の名勝。
   <煙雲館庭園 (気仙沼市松崎片浜)>
 松岩村片浜にあり丘陵の中腹に位し、前面の眺望すこぶる佳く、園中の雅致とともに地方を飾る名物なり 背後の松林の緑滴りて香しく・・・・・・(『気仙沼案内』小山源蔵 1911富田本店』)。

         鮎貝 盛徳 
                  初代気仙沼町長
     
 1857安政4年、仙台藩士、鮎貝太郎平盛房の長男。陸奥国本吉郡松崎村(気仙沼市)で生まれる。
 1861~1863文久年間、養賢堂(仙台藩校)教師、岡千仭の私塾・鹿門精舎で儒学を学ぶ。
     “幕末の大阪で塾を開いた漢学者、岡鹿門(仙台藩)”
     http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2011/05/post-de84.html

 1889明治22年4月、初代気仙沼町長。以後、1894明治27年4月までつとめる。
 1901明治34年、第5代町長に再任。
  1903明治36年1月、宮城県会議員、町長兼任となる。以後、19年間勤める。
 1922大正11年3月、この年退任。
   この間、学校林の整備、町有地の開墾、町公債の発行により、学校建設や教員俸給の確保につとめた。
  その功績を顕彰すべく「盛徳翁顕彰会」により、気仙沼市民会館前庭に銅像が建立される。
  ちなみに、庭園には、槐園の歌碑、直文のレリーフ胸像がある。

   落合直文
      置くところ よろしきを得て おきおけば 皆おもしろし 庭の庭石
   
   鮎貝槐園
      そよとだに たよりばかりの あれかしと 花にも風を いのるころかな


         落合 直文   
                  明治時代の国語学・国文学の革新者で教育家

 1861文久元年11月22日、鮎貝盛房の次男に生まれる。幼名・亀次郎のち盛光。
 1872明治5年、11歳のとき仙台市の神道中教院(教部省の教導職養成機関)入学。校長(伝督)落合直亮(なおあき)に見込まれる。
 1874明治7年、落合家に入籍、養子となり、名を直文と改めた。
    落合家は、本居平田の系統を継ぐ家である。
 1877明治10年、義父・落合直亮が伊勢神宮に任地替えになり、伊勢神宮教院(神宮皇学館)に入学。国史や国文を学ぶ。
 1881明治14年、院費で東京に遊学。漢学を修め二松学舎に入学。
 1882明治15年、東京大学古典講習科創設とともに入学。
 1883明治16年、直亮の次女・竹路と結婚。
 1884明治17年、歩兵第一連隊に入営。20年、除隊。
 1888明治21年、*皇典講究所の国文教師となる。この年、「孝女白菊の歌」を発表。
          第一高等中学校、早稲田専門学校でも教鞭をとった。
        *皇典講究所: 国学の研究機関、國學院大學の前身。

 1889明治22年、「国語伝習所」創立に参加。
 1890明治23年、小中村(池辺)義象・萩野由之らと『日本文学全書』を刊行。
     “明治期、熊本出身二人の池辺、池辺義象・池辺三山”
    http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2016/04/post-1350.html

 1891明治24年、『歴史読本』『新撰歌典』、27年『日本大文典』などを刊行。国語国文学の泰斗として知られる。
 1893明治26年、短歌革新を目ざして<あさ(浅)香社>を結成。新体詩をもふくめた韻文改良運動を進めた。みずからも作歌すると共に若い歌人の養成につとめ、与謝野鉄幹金子薫園らすぐれた歌人がここから生まれた。かたわら森鷗外らと「四季会」を結成。
 1903明治36年12月16日、死去。


          鮎貝 房之進(槐園  
                         言語学者 歴史学者 歌人
 1864元治元年、鮎貝家の三男に生まれる。
 1878明治11年、仙台師範学校卒業
 1884明治17年、官費学生として東京外国語学校朝鮮語学科に入学
 1890明治23年 宮城県会議員当選、一期のみ就任。
 1893明治26年7月15日、上野から与謝野鉄幹と共に南山閣から仙台、閖上、塩竃、松島、石巻、金華山を旅する。
       7月31日、8月3日南山閣で正岡子規の訪問を受ける。

      “朝鮮の土となろうとした明治の歌人、鮎貝槐園(宮城県気仙沼市)”
      http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2011/06/post-21db.html
 
 1894明治27年、朝鮮に渡り京城(ソウル)5ヶ所の私立小学校の創設の責任者となる。
          鮎貝が勤めた日本人学校・乙未義塾の同僚に与謝野鉄幹がいた。

      “六分の侠気四分の熱、与謝野鉄幹・晶子”
      http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2011/06/post-b700-1.html

 1906明治39年、日露戦争における功により勲6等。
 1916大正5年、朝鮮総督府博物館の協議員となる。
 1931昭和6年、代表作『雑攷』の出版を開始。
    『雑攷』: 第1輯(新羅王位号並に追封王号に就きて)~第9輯。国内いくつかの大学図書館に復刻版など所蔵されている。
 1945昭和20年、太平洋戦争、敗戦。
 1946昭和21年、引き揚げ途上の博多で中風のため病没。82歳。


   参考: 『現代日本文学大事典』1965明治書院 /  『教育社会学研究. 61』1997[沿岸地域における学歴主義と教育達成「利口、家もたず、達者、家もたす]片瀬一男/ ウイキペディア / 『日本人名辞典』1993三省堂

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