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2019年6月15日 (土)

角田の上水翁・高山善右衛門、加川よう(宮城県)

 次の引用文は100年前、田山花袋『山水小記』に描かれた大正期の宮城県伊具郡角田町の光景である。過ぎた歳月に加え2011年に東日本大震災があった同地、豊かな自然、松の緑を取り戻しているといい。

 ――― 岩沼からわかれた海岸線をたどると、亘理から二里で阿武隈川の河口にある荒浜町へと行かれた。そこには町から十二三町を隔てて鳥の海海水浴があった。
 鳥の海は小さな潟湖だ・・・・・・ 阿武隈川は溶々四五十里の泥砂を流して、日に日に港口を浅くしつつあるのであった。
 阿武隈川は余り人口に膾炙していない川である。須賀川付近の乙字の滝、二三の奇勝はあるけれども、旅客の思いを惹くのに足りたりるような処はなかった。しかし、それが梁川の北一二里の処から、連山重畳した中に入ると、渓山次第に色を生じて、角田町を中心にした伊具地方を流るヽ間は、帆影相重なり、艪声相続くという、半ば上流半ば下流といったような面白いシインを展開してみせた。
 そして溶々として海に注いで行くのであった。従って角田町は世に稀な面白い地形と雲烟と翠嵐とに富んでいた。
 浜吉田あたりから、松が非常に多くなってきた。見わたす限り松の林である。村落も松の中にあれば、停車場も松の中にあるという風である・・・・・・ 行っても行っても松原だ。静かな緑の濃(こま)やかな松原だ。そしてをりをりその松原の上に、一帆の白くそばだった遠い海の光が見えた・・・・・・ 
           (『山水小記』田山花袋1917冨田文陽堂)

 
         高山 善右衛門

 1863文久3年2月、伊具郡角田本郷本町(角田市)の地主で町の世話役の家に生まれる。名は孝良。
 1885明治18年、独逸学(ドイツがく)協会学校(現・独協学園)で学んでいたが、父の求めに応じて中退して帰郷。

    そのころの角田は水に恵まれず、井戸を掘っても良い水がでなかった。町場の家では、水売りから飲み水を買って生活していた。農家は「ため池」から水を引いていたので、日照りが続くと水不足で稲が枯れ、水争いも起こった。
 角田周辺地域は旱魃常習地帯で、善右衛門は農民の困窮をいやというほど見せつけられた。

 1889明治23年、善右衛門は町会議員になり、水不足を解決したいと考える。
    善右衛門は、角田の町を流れる大きな川で一年中、豊かな水を湛える阿武隈川の取水と潅漑用沼堤の干拓を思いつく。しかし、阿武隈川が町より低いところを流れているため、用水を作り、土地の高低差を利用して水を流すことを考えた
  しかし、当時の技術では工事が難しく、莫大な費用がかかるため反対され迫害された。
 それでも善右衛門はそれらを押し切り、自費で測量を続け、工事の方法や資金について説明するうち、ついに会員が集まり「上水期成同盟会」ができた。
 そのうち、館矢間村(丸森町)地内で取水すれば、北郷村江尻(角田市)まで自然流下の可能なことを発見する。

 1895明治28年、角田町は日露戦勝記念事業として企て、善右衛門は私財をなげうって作成した設計図を示し、ようやく理解をえた同志とともに期成同盟をつくって働きかけ、採択をうることができた。       
                                           

 1906明治39年4月4日、角田用水の工事が始まる。写真。
   500人以上の人が、手作業で土を掘って運ぶ大変な工事で、作業の困難さから資金が足りなくなり、議会で予算を追加することになった。
 1907明治40年3月29日、完成。
    初めて丸森から角田へ用水の水が流され、溜め池が干拓され新田がひらかれた
    この日の夕方、上水委員や役場職員など十数名と善右衛門は、楽隊とともに角田用水の通水を町内にふれ回った。

  ――― 角田上水は町内到る所に排水路ありて之より下水を落とし、町の北端に於いて居袋川に合し北郷村江尻閘門より阿武隈川に注ぐ角田上水は町の中部を貫流して日常の用水及び火防に備えらる此の上水は明治39年より40年に至る約一ヶ年を要して竣工したる本町の一代土木事業にして・・・・・・ 成功を危ぶむ者多く甲論乙駁、町の内外に大紛擾を惹起せることありたり、然れども高山善右衛門氏および時の町長など熱心に実現を図り・・・・・・   (『伊具郡史』渡部義顕1916) 

    角田上水(現:坪石幹線用水路)は、今も防火用水など地域用水として利用されている。阿武隈川以西の水田500ヘクタール(のち、機関取水によって1200ヘクタール)の干魃を解消したうえ、潅漑用の大沼、赤沼を干拓して140ヘクタールの町有田を得、古川、仙台、河南、中田につぐ仙南随一の米どころとなったのである。

   ?年     県会議員
   ?年、 郡会議員
 1928昭和3年3月1日死去。66歳。
    明治・大正の公共事業家、高山善右衛門は「上水翁」と讃えられ、死去にさいしては町民葬をおってその霊を弔った。


        加川 よう

 1885明治18年、高山善右衛門の長女としてうまれる。
  ?年、 仙台の長谷柳絮学校を卒業。

     長谷柳絮学校: 仙台生まれの志賀(長谷)理和は、1870明治3年、北一番丁に長谷塾を開いて裁縫を教える。明治20年、塾を私立長谷柳絮学校と改称。1918大正7年死去。
 ちなみに、平成21年「仙台青葉服飾・医療福祉専門学校」と校名を変更。赤痢菌の発見者、志賀潔は甥にあたり、教壇に立ったこともあったという。
  (仙台・宮城・東北を考える https://plaza.rakuten.co.jp/odazuma/diary/200911070001/)

   ?年、 加川直吉に嫁ぎ、6男3女の母となる。
   父の感化により和歌に親しみ、安成二郎の指導をうける。
 1928昭和3年、このころから子の教育のため仙台市広瀬河畔の別宅に住み、広瀬柳女の名で、*『河北新報』歌壇に投稿。嗣子、幸吉は角田公民館長として地方の文化発展に努めた。
     “「河北新報」主筆・仙台メソジスト教会、鈴木愿太(宮城県)”
     http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2017/02/post-7dfd.html

 1955昭和30年7月5日、70歳で死去。

    参考: 『宮城縣史・人名編』1986宮城県 / 宮城県公式ウエブサイト「みやぎの先人集」 / 『東宮行啓記念写真帳』1908宮城県(角田町用水路工事) 

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