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2019年7月 6日 (土)

小石川後楽園とその周辺 (東京都文京区)

     印刷博物館にて
 明治大学講座[武士と印刷]を受講、そのなかで印刷博物館の見学があり参加。実は、印刷機械ジオピングマシーンが見られるかもと期待して行ったが無かった。残念だが、ジオピングマシーンはもとより、清水卯三郎を知る人がいて話が通じよかった。

  ――― 山東は*北門社新塾を閉じても忙しい。出版の方は充実し新しい印刷機械が欲しい。そこで、パリ万国博覧会帰りの商人、清水卯三郎がアメリカから輸入したジオピングマシーン(活版印刷機)を購入した。清水は一郎に販売したほかにも、ドイツクルップ製脚転印刷機(足踏フート)を輸入し、日就社(のち読売)と東京日日新聞社(のち毎日)に売っている(『明治の一郎 山東直砥』中井けやき)。
   “英語塾と山東一郎(直砥)"
   http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2010/02/post-ff40.html

 印刷博物館へは飯田橋からも行けるが、地下鉄南北線の後楽園駅から行った。後楽園は、眼前の東京ドームに巨人を応援に行く時しか利用したことがなく、出口から博物館まで十数分の道のりが新鮮だった。
 後楽園駅周辺は、近くに小石川植物園の緑のせいか、広い通りを車が行き交う割に静かだった。いつかゆっくり歩いてみたい。まずはガイドブックで興味のおもむくままに紙上散歩。

 博物館では徳川家康が出版した書籍、伏見版とそれに用いた金属活字を特別に間近で見せてもらった。400年も前のお宝が拝めてよかったが、思いがけず天海僧正が出版した『大蔵経』が展示されていて、これもうれしかった。

  ――― わが国では玄昉が唐から「開眼釈教録」五千余巻をもたらして以来、奈良・平安時代に一切経の書写が盛んになった。その後、天海僧正の活字版、鉄眼の黄檗版、中国の高麗本など、それぞれ経蔵に保存され高僧や学者も滅多に見ることができなかった。
 ・・・・・・明治になって印刷術が発展し、大蔵経を印刷して仏典の研究や布教に役立てようという仏教学者・島田蕃根が現れた・・・・・・
 大蔵経全部を大蔵省の印刷所に回すことになったが、明治はじまって以来の大出版には大量の印刷用紙が必要、山東直砥は土佐紙を大量に取り寄せた・・・・・・ 経文を一字ずつ書写する時代には仏典は秘蔵され、小さな寺院は大蔵経が手元になかった。そのような時代、仏書の活版印刷は大事業だったのである(同上「明治の一郎」)。

     小石川後楽園、東京ドーム

 印刷博物館見学後、館所蔵の古書を何冊もみせてくれたが、そのなかに明の儒学者、朱舜水の本もあった。明朝再興がかなわず日本に亡命していた朱舜水を招いたのだ水戸藩主・徳川光圀である。
 小石川後楽園はその水戸徳川家の上屋敷庭園であるが、光圀は朱舜水の意見を入れて、小廬山・西湖堤などの中国趣味をとりいれて完成した。木曾山・松原・小廬山など、中国趣味と日本の景趣がとけあい、ウメ・サクラ・ツツジ・ショウブなどが、四季折々の景観をそえる名園となっている(『郷土資料事典13・東京都』1977人文社)。

 後楽園の名は舜水が『岳陽楼記』の「天下の憂に先んじて憂い、天下の楽しみに楽」から名付けた。岡山後楽園と区別するため1923大正12年に小石川の地名を冠した。
 
 庭内に「藤田東湖先生護母致命之処碑」がある。
 安政の大地震のさい、倒潰した長屋から母親を救い出し、自らは圧死したことを顕彰したものである。
 1868明治維新後、水戸藩邸は庭園部を除いて、兵部省造兵司の管理下に置かれた。
     庭内を貫流する神田上水を水車動力に、幕府関口大砲製造所の機器を移し軍需工場化、東京砲兵工廠となる。
 1872明治5年、陸軍省所管となる。
1923大正12年、関東大震災。砲兵工廠は甚大な被害をうけ、1933昭和8年、福岡県小倉へ移転。跡地に後楽園球場ができた。
    ちなみに、筆者は明治生まれの父と大正生まれの母、弟妹と家族で観戦した。日本橋のプレイガイドに並んでチケットを買ったのとあわせ、今は懐かしい思い出である。

 1988昭和63年、後楽園球場は初のドーム球場に衣替え。
    ドームになってからは夫と観戦したが、長野県出身なのに中日じゃなく、なんで巨人ファン? 聞くと、「巨人戦しか中継してなかったから」という。なるほど、どの地方でも巨人ファンが多いのは、その名残り? しかし時移り、今やパリーグも大人気でご同慶の至り。でも、巨人・大鵬・卵焼き好きは複雑。それに、野球よりサッカー他、いろいろなスポーツが盛んになっている。
 平和だからこそ、野球に限らずスポーツ観戦が楽しめる。大袈裟かもしれないが、どうか、この楽しみが続きますように。孫に限らず、若者が戦場にかりだされることが無いように願う。

     小石川植物園、石川啄木終焉の地

 正式には「東京大学理学部付属植物園小石川本園」といい、一般に公開しているが、本来は内外の植物見本を多数栽培して大学の教育・研究に供するもの。江戸時代、青木昆陽が初めてサツマイモを試作したのはこの園・・・・・・
 1722享保7年、将軍吉宗の時に町医師・小川笙船の提案で、貧民施療の小石川養生所が置かれた。 
 1871明治4年、小石川植物園となり、同10年東京帝国大学の所管となった(同上)。

 植物園の近くに小石川図書館があり、石川啄木の終焉の地に近く、石川啄木関連蔵書が充実している。
 1911明治44年、啄木は当時の小石川久堅町の借家にうつり、翌年4月、ここで没。享年27歳。あまりに若く痛ましすぎる。


            伝通院
     
 後楽園駅から徒歩15分のところに伝通院がある。家康の生母・於大の方が葬られている。関東十八檀林(学問所)の一つとなり寺運も隆盛した。1945昭和20年、戦災で諸堂宇を焼失、戦後に再建された。教育家・評論家として知られる*杉浦重剛、作家・*佐藤春夫などの墓がある。
    杉浦重剛: 滋賀県。イギリス留学後、東大や文部省に勤める。のち、読売・朝日新聞の社説を担当。それらに拠ってって国粋主義を鼓吹し、当時の社会に大きな影響を及ぼした。
    佐藤春夫: 和歌山県。「スバル」「三田文学」などに詩歌・小品を発表。<昨日の思ひ出に僕は詩人であり、今日の生活によって僕は散文を書く>と語り・・・・・・「田園の憂鬱」によって新進作家として認められた。戯曲も書き、知的洞察力と鋭い分析力をもつ批評家として業績を残した。名作「秋刀魚の歌」を知る人も多いだろう。

     小石川蝸牛庵

 伝通院学寮にあってわずか3年で浄土宗奥義を究めた澤蔵司(たくぞうす)という修行僧が祀られている澤蔵司稲荷のムクの老樹脇に幸田露伴宅跡がある。
 露伴の別号から小石川蝸牛庵と呼ばれていたこの家に、露伴は1927昭和2年から、長野県に疎開する1945昭和20年3月まで住んでいた。
 同年5月、蝸牛庵は空襲で焼失。戦後、次女の幸田文が再建し、死去するまで住んでいた(『東京都の歴史散歩』2005山川出版社)。
    好きな作家の一人、幸田露伴が住んでいたと思うと、小石川がいっそう風情あるよい町に見えてきた。
 

 

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