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2019年8月31日 (土)

「信濃の国」浅井洌、信濃教育会会長・会津中学校長・浅岡一(長野県・福島県)

 たしか長野オリンピック後だったと思うが、同地で博覧会があった。人気のパビリオンはなかなか入場できず、人は増えるばかり。見なくてもいいや、列を離れかけたとき ♪信濃の国は十州に~~が聞こえた。するとたちまち大合唱となり、長野県人の夫も仲間入り。

     信濃の国は十州に 堺連なる国にして
     聳ゆる山はいや高く 流るる川はいや遠し
     松本 伊那 佐久 善光寺 四つの平は肥沃の地
     海こそなけれ物沢に 万足らわぬ事ぞなき

 以下6番まで合唱、終わるとまた1番からと歌いだして場の空気は一変、笑顔になった皆はもも焦らない。長野県人は佳い歌を持っているなあと感心した。「信濃の国」を作詞したのは、長野師範学校教師・浅井洌(あさい れつ)という、17歳で松本藩兵となり長州征伐にいった人物である。

       浅井 洌  (あさい れつ)

 1849嘉永2~1938昭和13年。
 1864元治元年、*長州征伐に出征。
     *長州征伐: 幕末のおける江戸幕府と長州藩との戦争。
 1876明治9年、筑摩県と旧長野県が合県のさい、両師範学校を統合して長野師範学校が発足。初代校長・能勢栄
 1881明治14年、奨匡社(自由民権結社)創立委員。
 1898明治31年、長野県師範学校教諭。

 1899明治32年、唱歌「信濃の国」を信濃教育会『信濃教育会雑誌』に発表。
     作曲は北村季晴(すえはる)。作詞から69年後の昭和43年、長野県歌に制定。
 1900明治33年10月、師範学校運動会で、「信濃の国」に踊りのふりつけがおこなわれ、県下各地の小学校の運動会で踊られるようになった。

 作詞者の浅井は松本藩から長州征伐に出たが、信濃教育会の初代会長をつとめた浅岡一は、戊辰の役に16歳で鉄砲担いで戦った。
 浅岡は浅井より2歳下で福島県二本松出身。信州に赴任すると、先に長野県下で教育に励んでいた兄・渡辺敏とともに「長野教育」の名声を全国に広めた。


      渡辺 敏  (わたなべ はやし)

 1847弘化4年、陸奥・二本松藩藩士の家に生まれ、母方の姓を継ぐ。
  ?年、東京師範学校卒業。
  ?年、福島師範教諭、長野小学校校長。 
 1896明治29年、長野高女(現長野西高)初代校長。女子の体育や登山を奨励した。
 1930昭和5年2月21日、死去。84歳。
    著作「一罎百験」。格言、一の試験管能(よ)く十余の疑問に答う。


       浅岡 一   (あさおか はじめ)

 1851嘉永4年1月8日、安積郡桑野村(福島県郡山市)二本松藩士・浅岡段介の5男に生まれる。
     幼名・音吉(於兎)。号・牧堂、東巌。
     長兄・浅岡與惣衛門、次兄・利和、三兄・剛三郎(早世)、四兄・信四郎(後の渡辺敏)

 1868明治元年、戊辰戦争
     16歳で参戦、鉄砲組として転戦18回、白河口が落ちた本宮での戦いでは左腕を銃弾が貫通し、危うく命を落とすところだった。 
 1871明治4年、上京。文部省高官・辻新次
の書生となる。
 1873明治6年、文部省出仕となり、教師課・編書課に勤務。
 1874明治7年、設楽左文治の次女、たけと結婚。2月、広島師範学校に赴任。
 1875明治8年11月、東京女子師範学校教諭
       同年、実兄・渡辺敏、長野県下で教鞭をとる。
 1877明治10年、文部屬、地方学校局に勤め教則取り調べ掛兼務

 1886明治19年9月、和歌山県学務課長より転任。
       長野県尋常尋常師範学校長(第三代) 兼 学務課長。
       校長として自分の年俸は800円だったが、教頭を1000円で迎えたという話が伝わる。
    7月、信濃教育会発足。
    10月、初代会長に就任。
        兄・渡辺敏と手を携え「長野教育」に力をつくし名声を全国に広める。

    ――― 体躯長大にして容貌魁偉、堂堂たる風采先ず人を圧す。気宇闊達にして公明、達識にして精気煥発、熱烈、至誠、雄渾、剛毅・・・・・・ 往くところ恩威ならび行われるのであった・・・・・・ 県令・木梨精一郎氏の信任を厚うし・・・・・・創意的才能を縦横に発揮し、よく文運を起こして信州教育を天下に重からしめた(『信濃教育史概説』)

 1893明治26年、華族女学校(学習院)教授となる。
 1904明治37年、日露戦争。

 1906明治39年4月、華族女学校は学習院へ併合となり辞職。
        10月、福島県立会津中学校長として赴任。
    ふるさと郡山の開成山に引退後、会津からの要請で校長就任。
    自ら筒袖・モンペを着用して生徒の制服と定める。

 「日本一の中学校長」とも称された浅岡は、会津中学校校長に就くと日露戦争後の華やかな世相に反発し、質実剛健の気風を作るため洋服に代わりモンペと筒そでの和服を制服にした。修学旅行で行った東京・上野駅では、モンペ姿を見物しようと群衆が集まり、会津中学校の質朴さが全国に知られるきっかけとなった。
  柔剣道を奨励し、寒稽古には火鉢にも当たらず生徒の練習を見守り、教職員が病気になれば必ず見舞うなど優しい面をのぞかせる一方では、来校した県知事の名前を失念しても動じないというおおらかさを持つ理想的な教師だった。

 1907明治40年、尋常小学校正教員臨時講習所長。

 1912大正1年12月、会津中学校長退任。62歳。
      退職に際し、生徒に残した訓示「曲学阿世の才子たらんより、世の毀誉褒貶をかえりみざる質実剛健なる今世の馬鹿者たれ」
 1922大正11年、師範学校の玄関前に頌徳碑が建てられる。碑銘の撰文は杉浦重剛。 
 1926大正15年9月25日、慢性腎臓炎のため逝去。二本松に葬る。75歳。
    著作。フランス文学の訳書『レ・ミゼラブル』『嶽の花』『黒い百合』

   参考: 『信濃教育史概説』市川虎雄1933信濃毎日新聞)/ 『二本松市史 9巻』1989二本松市 / 『長野県の百年』1983山川出版社 / インターネット<会津人物伝>

           ********** 

    <余 談>  
  安政年間、信濃国長野村に小さな店舗を構えた「小枡屋松葉軒西澤」 明治42年、福島市大町に書店をオープン・・・・・・100周年を迎えることができました・・・・・・長野の書店がなぜ100年前に、この地にお世話になったのか。それには不思議な縁がありました。
 長野県を全国有数の教育県に育てた功労者として渡辺敏先生、浅岡一先生という兄弟の教育者がいます。いずれも福島県二本松出身の幕末生まれで、明治維新の日本近代教育の礎を築いた功労者、教育界の恩人として、長野県の教育史にその名をとどめている人物です。
 第12代当主西澤喜太郎は、この兄弟と深い親交があったようです。そしておそらく、渡辺先生から進取の気風と勉励刻苦をいとわない文化の香り高い福島の地に書店を開き、教育振興の一助になるよう強く勧められたのではないかと推察されます・・・・・・(福島市、西沢書店HPより)。

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