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2019年10月12日 (土)

箱館奉行定役・彰義隊・安達太良山開発、小田井蔵太(福島県)

  東台戦争落去之図 著者・惺々暁斎 出版者・ゑひすや(古典籍資料/錦絵) 下の左隅、赤い短冊に小田井蔵太の名

 『福島県史』(1972福島県)人物編、郷土ならではの記述があり折にふれてみる。それにある「彰義隊副隊長・小田井蔵太」を知らなかったので、 http://kindai.ndl.go.jp/ で検索すると、上野戦争の錦絵がでてきた。写真の扱いが拙く見にくいが、小田井蔵太の名がある。

 経歴をみて興味が湧いたが参考書籍が見つからず諦めかけたところ、ネットに何件かあった。その中に小田井の酷評があり、北海道の名付け親、松浦武四郎の言葉だというから驚いた。何でだろう、気になる。
     “佐渡金山、佐渡奉行川路聖謨、松浦武四郎、柴田収蔵ほか(新潟県)”
     http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2018/06/post-f3b6.html
 幕末・維新期の探検家、松浦武四郎は好きな人物というのもあるが、やたらに人をこき下ろすような人間とは思えないからだ。
 そこで、二人の接点を調べると、北海道が蝦夷地とよばれた松前藩時代からの「場所請負人」制度にあると分かった。それも含めて小田井蔵太の来し方をみてみた。

             小田井 蔵太   (おだい くらた)

 1830天保1年、江戸で生まれる。
      幼くして父を喪い、母にともわれ二本松鈴石(二本松市)に移り住む。
      少年時代、魚の行商をして家計を助ける。
  ?年、 江戸にでて幕臣・川窪駿河守の学僕となる。
      槍法を学び、ついで*斎藤弥九郎びついて剣術を修める。
   *斎藤弥九郎: 幕末維新期の剣客。江川太郎左衛門(坦庵)の後援で練兵館を開き、神道無念流を教授した。千葉周作・桃井春蔵とともに幕末三剣客といわれた。

 1853嘉永6年、23歳。幕臣に取り立てられる。
 1855安政2年、箱館奉行・堀織部正に従い、北辺警備に派遣される。
 1857安政4年、江刺奉行を命ぜられる。
   ?年、  信濃守に任官、秩禄3000石。
    久摺(クスリ)の勤番所には安政4年に、下役・柴田弁一郎、同心・小田井蔵太、足軽・腰山平左衛門が勤務した(*島「入北日記」)。
       島義勇しまよしたけ 安政年間、鍋島藩命により北海道・樺太を視察。帰藩後「入北日記」を著す。

 1858安政5年、箱館奉行定役・小田井蔵太、東岸シスカ川漁場開発許可される。
   ――― 箱館奉行所文書 簿書00055 件名。
       [北蝦夷地御直場所クシュンナイ御締所普請に付小田井蔵太伺

         ――― 蝦夷は鎌倉時代以降、東北地方から日本人が移住し先住民族アイヌと交易。江戸時代になり松前藩は蝦夷地交易の独占権をにぎり、蝦夷地を多くの「場所」に分け、その範囲内における交易独占権を家臣に知行のかわりに与えた。それにより場所請負地が沿岸周辺部に開けた。
 場所請負人は、場所と称する地区に分けられた場所内の漁業権を掌握、行政面にもしばしば口を入れて漁民を支配した。そればかりでなく生産から流通まで実権を独占、その勢力は強大であった。
 魚粕・塩魚・昆布・いりこなどは江戸時代の重要な中国向け輸出品で、東北農民の食料、魚肥は京阪の商品作物になった。蝦夷の産物を北前船で積み出し、大阪方面でこれを降ろし米や味噌、木綿などを積んで戻ってきたのである。これらの交易は藩士が実施したのではなく、近江商人を主とする出稼ぎ商人に請け負わせることが多く、彼らが実権を握るようになる。場所請負人は労働力として先住民族を使用、経済的にも政治的にもアイヌを圧迫した。
 松浦武四郎はその現状を案じ、蝦夷地請負商人による弊害を打破しようとした。しかし、特権を守ってきた商人の失脚工作にあい、上司にも商人らに同調する動きがあった。怒った松浦は、弾劾書ともとれる辞表を提出して開拓使を辞め、北海道を去ったのである(『明治の一郎 山東直砥』中井けやき)。


   <松浦武四郎「久摺日誌」と西別川一件書>インターネット

   ――― 安政5年3月19日に十勝の扶検を終って釧路に向った武四郎はチョクベツ・オンベツ・シラヌカ・ショロ・オタノシケを通り21昼ごろ釧路会所に到着した。武四郎が釧路場所、斜里場所管内の視察を申込んだところ、会所役人の小田井蔵太という人が、
「北見はまだ見ていないので同行したい。」と申出で快諾した。
    供のアイヌはナイボツ、 ラマミ、ラマノクノ・・・・・・ の外に宗吉(アイヌ) であった。・・・・・・ 大楽毛から阿寒に入り、北見の美幌を経てオホーツク海に出て、網走、斜里を通って北方から摩周岳に登り、屈斜路に抜げ・・・・・・釧路会所に帰るという大探検旅行で、あった。
 メンカクシは後年、庄屋精一郎となった者で、釧路アイヌ第7代の酋長として、義経が先祖と信奉・・・・・・ 会所役人小田井蔵太としばしば勇を競った・・・・・・ あるとき山中で、アイヌがヲセカムイと尊称している狼にあい、アイヌらは馬ほどもある狼におそれをなしたが、小田井は、万物の霊長たる人間が獣を神と奉るはもってのほかと怒り生捕りにしてしまった。さすがのメンカクシも恐入って義経の再来かと敬した。


   <稿本『明治二年東海道山すじ日記』東海道山すじの旅>インターネット

  ――― 奇異な感じを抱かせるのは、小田井蔵太に対する人物評価で「生来不仁不慈は併無き男」とまで小田井を酷評、罵倒している・・・・・・
   松浦は開拓判官になったものの、住民無視の北海道開拓がなされることに激しい怒りを感じ辞表を出したのは、それが幻想であり、夢であったことを思い知らされたからである。
   稿本『山すじ日記』は松浦武四郎記念館所蔵の「松浦家文書」中の一冊で、表紙一丁、本文二十三丁の武四郎自筆の報文日誌である。白表紙・仮綴。外題「明治二年東海道山すじ日記」、内題はない。
「松浦家文書」・・・・・・直系ご子孫の松浦一雄氏から松浦武四郎記念館に一括寄贈された。

   <釧路歴史散歩>インターネット

  ――― 窪田子蔵「協和私役」(きょうわしやく)。外国掛老中で佐倉藩(千葉県佐倉)の藩主である堀田備中守正篤からは3人が派遣された。9月23日にアッケシから釧路会所にたどり着いた。クスリ場所に勤務する小田井蔵太の話にいうには、
漁業に力を入れすぎていて農業開発を忘れていると話す。このままでは、移住者が増えこそすれ漁業資源は乏しくなるばかり、窪田は「漁業経営の存続が困難になることを心配する」小田井の意見に心を動かされる。

 1868慶應4年、戊辰戦争。
    彰義隊に加盟し、副隊長に推挙される。
    彰義隊: 将軍、徳川慶喜の警護などを目的とし、上野寛永寺に屯所を置き、渋沢成一郎や天野八郎らによって結成された部隊。江戸幕府より江戸市中取締の任を受け江戸の治安維持を行ったが、明治新政府軍に敗れる。
 小田井は、残党を率いて東北に下る。会津藩を助けて戦うもここでも敗れ、福島県中部の安達郡南西部の本宮町(もとみやまち)に住みついた。

 18689月8日、明治元年。
 1871明治4年、7月水戸県(のち茨城県)。11月、大参事に任ぜられる。
       間もなく帰農、安達太良山開発のために働く。
       沼尻・中ノ沢温泉の開発者としても知られる。

    沼尻温泉
 中ノ沢の奥一里余にして沼尻温泉あり。山路険悪なるも風景すこぶる佳にして、近傍に白糸の滝あり、縣河二十丈壮観たり・・・・・・ 湯花は近年産出おびただしく(『猪苗代案内』小林才二1915小林商店)
    中ノ沢温泉
 明治十九年の設計(小田井蔵太?)に係り、沼尻温泉の引き湯たるも泉質、無色透明にして硫黄気きわめて深し。

 1889明治22年2月19日、死去。59歳。
    福島県本宮市の石雲寺に小田井蔵太碑

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