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2020年5月30日 (土)

自費でパリ万博見学・日清戦争従軍日本画家、久保田米僊(京都)

 緊急事態宣言が解除されたが、コロナ禍が消えた訳ではないから不安が残る。それにしても情報がありすぎてウロウロしてしまう。
 この先、今までと違う日常、それもゆとりのない日々が待っていそうだ。こんな予感は外れたほうがいいが、ガラ携・アナログおばさんは悲観的になりがちだ。
 ところで、スマホ世代は最新機器を活用、不自由を楽しみに代えている。バランスボール教室の友人は仲間とテレワーク、互いの自主練をチェックしつつ運動しているそう。それを聞いて、皆の笑顔が浮かんだ。自主連はパスだけど、皆に会いたいなあ。コロナ禍前、何のこともない日々、普通が恋しい。

 話変わって情報が少なかった昔、時の変わり目、転換期、人々の日常はどうだった。
 江戸から明治、年表上では「明治維新」で区切られ、ヤング・ジャパン誕生となるが、本の頁をめくったような訳にはいかない。次は、*宮武骸骨の明治維新
  ――― 明治維新とは、旧制の幕府、旧制の幕府を倒して新政府を建てた際を言うので、慶応年間は旧時代に属し、明治初年は新時代に属するのである。しかれども、制度、風俗、思想、文物などが、この際、一時に変革されたものではない。いわゆる新旧混沌の時代があって、漸次に[次第に]今日の文化を来したのである。
 その新旧混沌時代の法制、風俗、科学、文芸、経済、教育、思潮、新聞雑誌などは、皆ともに幼稚なものであった(『明治奇聞』1997河出書房新社)。

 宮武骸骨は、反官的諷刺ジャーナリスト。庶民の側から明治という時代を「頓智協会雑誌」「滑稽新聞」などの雑誌や奇書を刊行、後世に伝える。久保田米僊は、『明治奇聞』宮武骸骨<明治十二傑・十二画伯>に、橋本雅邦・川端玉章・浅井忠・黒田清輝らと並んでいる。

     久保田 米僊   (くぼた べいせん)

 1852嘉永5年、京都の料理屋に生まれる。幼名、米吉。
   ?年、 早くから画を好み、鈴木百年について学ぶ。
 1875明治8年、このころ画業を親に反対されて家出、富小路四条上るという所で2年ほど長屋暮らし。生活に困っていたが、親が折れる。
 1880明治13年、京都の絵画が衰退していたので、*幸野楳嶺(ばいれい)らとともに、画学校を計画、槇村正直府知事の理解を得て京都府立画学校として創立する。
     
    幸野楳嶺: 維新に際会して貧窮したが、研究を深め、謹直で理想主義的な画風を樹立。門下に竹内栖鳳・川合玉堂。

 1882明治15年、第一回内国絵画共進会の審査員。
 1883明治16年、第一絵画共進会が東京で開催され、京都出品人総代として東京へ。
 1885明治18年、第二回共進会に歴史画を出品。銀賞となり、社会的地位を得る。
 1887明治20年、『絵島之霞』(著・久保田米僊、出版・田中治兵衛)。
    物語絵本のようだが絵に説明がなく、また素養が無いので、序の漢文が読めず内容が分からない。

 1889明治22年、京都美術協会を創立。フランス留学。
    『米僊漫遊画乗』(第一編)田中治兵衛出版。~明治23年。
 自費でパリ万国博覧会見学に行き、その途中の見聞を描いたもの。
 第一編は、香港・上海などの港の光景や汽船、清国の街や演劇の様子等など。
 第二編は、安南(ベトナム)の風俗からキジなど動物や宮殿、シンガポールの漁師、回教寺院、トビウオの図の次は船の大砲。とくに編集せず、描いた順に掲載したもよう。
    ちなみに、1889年のパリ万博はエッフェル塔の建設で有名であった。

 1890明治23年、パリ万国博覧会見学の画報を「京都日報」に送り、それを見た*徳富蘇峰が、米僊を「国民新聞」に招き、米僊は新聞の挿絵を描くことになった(『名家歴訪録』黒田譲)。

    徳富蘇峰: ジャーナリスト。熊本洋学校・同志社で学ぶ。民友社を創立、平民主義を唱えた。のち、国家主義に転向。小説家・徳冨蘆花は弟。

 1892明治25年、『画法大意』博文館(シリーズ名女学全書)
    絵画の起原、日本画の沿革・流派考・画学心得・画家略伝ほか。画家は鳥羽僧正から土佐派、狩野派、円山応挙から伊藤若冲、司馬江漢、谷文晁、河鍋暁斎などなど幅広い。ちなみに、編集発行は大橋新太郎。

    “博文館*私立大橋図書館、大橋佐平・大橋新太郎(新潟県)”
  http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/.preview/entry/770549853a458a0ce347b35081f96ec9

 1893明治26年、シカゴ博覧会に自費で渡米、翌年、帰国。

    アメリカ滞在中のエピソード①
 英語ができる友人と駅で待ち合わせたところ、米僊が停車場に着いた瞬間、汽車は汽笛をのこして走り去ってしまった
  ――― 米僊先生これはとばかり口アングリ、唯呆然として汽車を見送りぬ。駅員はこの態をみるより、何うか仕たかと仔細を尋ねけるに米僊先生英語を知らぬ哀しさ、舌あれども何の用をもなさず、しばし考え居たるが、そこは画工の一徳、たちまち紙筆を撮りだしてサッサと描き認め、イザとて差出すと駅員、手に取って打ちみやれば、これぞ、
「一列の汽車黒煙を噴きつつ馳せ去り、一人の日本人は車窓より首をツンだして停車場を見送り、一人の日本人は停車場に立ってベソをかきつつ馳せ去る汽車を見送る図」なりければ、駅員思わず失笑(ふきいだ)し、
「さては今の汽車に乗り遅れて同伴者だけ先へ往ってしまったんだな」と悟り・・・・・・ 
 自分のポケットより懐中時計を取りだし、まず短針を指さして「是が此処」と云い、次ぎに長針を指さして・・・・・・ 手真似にて教えくれにけるぞ(『赤毛布・ 洋行奇談』熊田宗次郎1900文禄堂)。

    アメリカ滞在中のエピソード②
 <久保田米僊、外人に矢立の注文を受く
  ――― 汽車中に小荷物を忘る画伯、外国語に通ぜず、矢立(やたて 携帯筆記用具)を出して、其の状を一紙に描き、之を駅長に訴ふ、駅長その意を諒し、忽ち電話を以てこれを取りよせ画伯に渡す。それより画伯の名にわかに上がり、車中争ふて揮毫を乞ふもの多し。
 すなわち矢立を以て之に応じ、たちどころに数十枚を描く、その健筆を以て矢立の作用に基づくものと誤認し、画伯に向かって矢立の注文をなす者多し(『名流百話』渡辺斬鬼 ・文錦堂)

  『閣竜世界博覧会美術品画譜』 第1~4集(明治26~27年・大倉書店)、博覧会作品カタログ。ある意味、写真よりわかりやすい点もあり見て愉しい。

 1894明治27年、日清戦争。画報記者として従軍。
   『日清戦闘画報』(大倉保五郎出版)
   〔明治二十七年八月一日 御名御璽〕総理大臣・伊藤博文~司法大臣・芳川顕正まで大臣10人が名を連ねている。翌年にかけ第8編まで出版。

 1896明治29年、第四回内国博覧会で審査官をつとめる。
 1897明治30年、岡倉天心の勧めで、石川県工芸学校の教職につく。
 1898明治31年、眼疾のため工芸学校を退職。
 1900明治33年、失明。再び画筆をとることができなかった。
    光を失った米僊、没するまでの6年間、その心中を察すると言葉がない。

    同年6月、『米僊画帖』(出版者*小川一真)
    “明治の営業写真家・印刷業者、小川一眞”
   http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/.preview/entry/770549853a458a0ce347b35081f96ec9

 1903明治36年、『当世画家評判記』(春蘭道人・秋菊道人、文禄堂)より、
  ――― 久保田米僊。元は京都の料理屋の息子で、鈴木百年翁に就きて学び、一家の風をなしました。寛または錦驎子(きんりんし)という別号があります。
 腕の達者なとは、当世殆どその類なく、数十枚たちどころになるという風があります。意匠も一種斬新で甚だおもしろい。*風騒の才も冨贍(ふうせん)で、俳句もなかなか面白いのがある。
    風騒: 詩文を作ること。風は「詩経」の国風、騒は「楚辞」の離騒。

 1906明治39年、死去。享年54。
    その他作品、「半偈捨身」「牡丹と猫」
  『年中総菜料理』(新橋堂)明治40年発行。没後の出版だが再版なのか、かねて準備のものか分からない。1月~12月まで朝・昼・晩の献立の絵と説明が興味深い。これも国会図書館で読める。 https://dl.ndl.go.jp/ 

    参考: 『近現代史用語辞典』安岡昭男編1992新人物往来社 / 『日本人名辞典』1993三省堂 / 『世界大百科事典』1972平凡社 / 国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/

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