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2020年6月 6日 (土)

反骨の釜石市長、鈴木東民(岩手県)

 コロナ禍でマスク生活も慣れてきたと思ったら、暑くなってもう一苦労。ところで、感染防止対策を主導する県市の首長の指導力が目立つ。なかには国も見習った方がいいのではという方針を示す知事もいたりして、それぞれ力量が問われている。
 それにしても日常が変わってしまった。このさき元に戻るのだろうか。全国の感染者数一覧をみてはため息の日々だが、岩手県だけは、なんと感染者0を維持している。
 地下の宮沢賢治もほっとしているのではないか。いや、賢治のことだから、岩手県に限らずどこもそうあって欲しいと思っているに違いない。
 そんな想像をしていたら、賢治と親しい釜石市の市長をつとめた人物がうかんだ。大正・昭和期に活躍したジャーナリスト・労働運動家・政治家、鈴木東民である。

   <鎌田慧の「ビラまき三年カキ八年」>
  --- ガリ切り筆耕時代の賢治は、おなじところで校正をやっていた同郷の後輩・鈴木東民にむかって、「印刷屋のおやじは搾取することしか考えていない。からだをこわしては元も子もなくなるから、仕事はほどほどにしておけ」といつも忠告していたそうだ。 賢治のヒューマニズムが、*ガリバンヤでの苛烈な搾取をくぐり抜けたものであったことを、わたしは東民のエッセイ集・『市長随筆』によって教えられた(『水牛通信』1980年6月)。
    ガリバン: ガリ版・謄写版。鉄筆で原紙をを切るとガリガリいう音。

     鈴木 東民   (すずき とうみん)

 1895明治28年6月25日 、岩手県唐丹(とうに)村(釜石市唐丹町)に生まれる。
 1913大正2年、仙台の東北中学卒業。
 1914大正3年、仙台第二高等学校・独法科入学。弁論部に入部。
 1920大正9年、二高を卒業。浪人1年、在学6年7年がかりの卒業であった。東京帝国大学入学、こちらは4年で卒業。

   10月上京してアルバイト先で賢治と知り合う
    --- 東大の赤門前に、「文信社」という謄写屋があった。そこの職場で私たちは識りあった・・・・・ 賢治の仕事はガリ版で謄写の原紙を切ることであった。かれはきれいな字を書いたから、報酬は上の部であったろうと思うが、それでも一ページ二〇銭ぐらいのものだったろう・・・・・ かれが花巻の旧家の息子さんで・・・・・ 私たちは急に親しくなったのであった。そのころわたしの母は宮沢家のすぐ近所に、同じ町内に住んでいた(「筆耕のころの賢治」鈴木東民)
 1921大正10年、夏休みに母の元に帰郷、宮沢家に招ばれてごちそうになる。

 1923大正12年、東京帝国大学経済学部卒業。大阪朝日新聞に入社。
        翌年、恩師の吉野作造が大阪朝日新聞入社。宮城県の先輩・吉野に東大で政治史を学び、吉野の助力で学費を得られ、ドイツにも行けることになる。
    9月1日、関東大震災に遭う。当時、東民は麻布のとある家の居候で、数々の惨劇を目の当たりにする。東大の経済学部の研究室も焼失。吉野作造は蔵書を大部失う。

 1926大正15年、日本電報通信社(電通)の海外留学生募集に応じ、同社のベルリン特派員として、8月6日、ドイツに向かう。
 1929昭和4年3月7日、ドイツ人女性、ゲルトルートと結婚。
    --- コルメツ銀行に預金をおろしにいった。ゲルトルートが長年にわたって法律事務所ではたらき、ドイツ人らしい質素を旨として蓄えた大金だった。しかし、銀行側は、「この口座は封鎖されている」と支払いを拒否。「日本人と結婚したからだ」とつけくわた。
  --- 1930年代、ベルリンには500人ほどの日本人がいた。文部省派遣の学生が百人以上。それに陸海軍の情報将校や芸術家たち。旅行者も多かった。
  --- 東民は電通の送金が切れたあと週刊紙を発行していた。タブロイド判2ページの『ベルリン週報』・・・・・ 手書きのガリ版印刷・・・・・ 1部5マルク、そんなに売れないんだけど50部くらい(中略)
 ベルリンでは、東大医学部助教授の国崎定洞を中心に社会科学研究会がひらかれ(以上、『反骨 鈴木東民の生涯』)

    “衛生学者・社会運動家、国崎定道(熊本)”
    http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/.preview/entry/770549853a458a0ce347b35081f96ec9

 1934昭和9年3月、ゲルトルートともに帰国。ナポリ港から神戸まで37日間の船旅。
 1935昭和10年1月、読売新聞社に入社。外報部長兼編集委員を務めた。
    反ナチスの論陣を張り、当時の駐日ドイツ大使オイゲン・オットから危険視されて休職。郷里の岩手県に帰郷した。
 1945昭和20年、終戦。上京して読売新聞社に復帰。

    読売新聞争議: 10月23日社員大会が、会社首脳部の戦争責任追求・社内民主化・待遇改善を要求したのに端を発す。社内改革を目指して正力松太郎社長など幹部の退陣を要求。反撃を受け解雇されたため従業員組合を結成。最高闘争委員・組合長として第一次読売争議を指導。いわゆる<民主読売>を発行したが、127日間にわたる第二次読売争議で敗北し退社。
 この後、正力がA級戦犯容疑者に指名され、巣鴨拘置所に収監され、鈴木の解雇は撤回された。 読売新聞編集局長に就任。
 1946昭和21年6月、GHQの勧告(政府批判記事についてての警告)により再び解雇。
    第二次読売争議を指導したが、10月16日組合側の敗北で終わった。

 ?年、 自由懇話会理事長や民主主義擁護同盟常任委員を務める。
    日本共産党に入党し、衆院選や参院選に出馬したが落選。
 1951昭和26年、共産党離党。?年、 労働者農民党に移籍。

    <「岩手・忘れ得ぬ人びと」岩垂 弘>より
   --- 読売を追われた後は郷里に帰り、五五年、釜石市長に当選する。六十歳になっていた。その 後、三期十二年、そのポストにあった・・・・・ 1958年か59年だったと思う。岩手県庁内の廊下を歩いていたら、長身でがっしりした体 躯の初老の男性とすれ違った。目鼻立ちがはっきりしていて、彫りも深く、日本人離れをしてい るというか、一見、ヨーロッパふうの風貌である。一緒に歩いていた先輩記者が言った。「鈴木 東民だ。奥さんはドイツ人だよ」。私は思わず振り向いてその後ろ姿を目で追った。なぜなら、 私は新聞記者になる前から、その名を知っていたからだ(岩垂 弘)。

 1955昭和30年、釜石市長に当選。三期務める。
    --- 市長選のとき、東民は片岸川のほとりにある、サケ漁業の番屋に寝泊まりしていた。そこが運動の貴店でもあった。東民が模造紙に毛筆で書いた決意・・・・・「我 故郷に骨を埋めんとす かの蓬萌ゆる丘に」 60歳の決意だった。それが遺言となって、いまその丘の中腹に、東民の墓碑がある(『反骨 鈴木東民』)。

  --- 当時、釜石市といえば、釜石製鉄(富士製鉄釜石製鉄所、のち日本製鉄と合併、新日本製鉄釜石製鉄所)の城下町といわれた。市長となった鈴木は製鉄所の高炉から出る煙害や 排水を規制するなど、企業による公害の防止に全力投球する一方、教育や商業の振興に取り組んだ(岩垂 弘)。

 1958昭和33年、*甲子川上に日本で唯一の「橋上(きょうじょう)市場」を建設。
     甲子川: かっしがわ。北上高地南縁のに発してほぼ東流し、釜石湾にそそぐ川。源流部に釜石鉱山。釜石線・釜石街道が併走し、河谷は交通路として重要。源流部に磁鉄鉱を主とする釜石鉱山。下流部の低地に釜石市街地がひろがる。
  --- 人とクルマが通る従来の橋の横にもう一本、駅構内にみられる跨線橋のような、長さ百十メートル、幅十三メートルの屋根つきの橋が架かった。露天商たちは念願の店をもつことができた。ここはいまでも賑わっている(『反骨 鈴木東民』)。

 1963昭和38年、 “三閉伊一揆の指導者、三浦命助(岩手県閉伊医郡)"
          http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/.preview/entry/770549853a458a0ce347b35081f96ec9

 1967昭和42年、市長選に落選。直後に釜石市議選に出馬し当選。市議を一期務める。
   --- 市長選で釜石製鉄労組出身の候補に敗れると市議選に立候補、トップ当選を果たすが、二期目の市議選に落選して釜石を去る・・・・・ 私は、盛岡を去っても鈴木の消息が気にかかり、その後も彼にかかわる情報を得るよう努め た。市長選に落選した彼が市議選に打って出、トップ当選したと聞いた時は、七十歳を超えても なお釜石製鉄に対する闘いを続ける彼の執念をみた思いだった(岩垂 弘)。

 1979昭和54年12月14日、死去。享年84。

   参考: 『反骨 鈴木東民』鎌田慧1990講談社  / <わが体験的マスコミ論― 岩垂弘> 「岩手・忘れ得ぬ人びと②」https://www.econfn.com/iwadare/page112.html / 『日本人名事典』1993三省堂 / 『日本史事典』1908角川書店 / 『日本地名辞典』1996三省堂

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