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2020年6月13日 (土)

甘美な感傷・華麗な叙情で一世を風靡、高畠華宵(愛媛)

 ステイホームが続く日々、下校中の子どもを見かけた。暑い日盛りを歩く子らの背中で重そうなランドセル、やっと学校がはじまったけど大変そう。大人も辛抱しないとね。
 「読み書き好きだから外出できなくても退屈しないでしょ」といわれる。
 確かに、ブログのおかげで適度な緊張感を保ててる。贅沢いえば、これに絵や音楽があれば、潤いの時がもてそう。しかし、その方面のセンスはイマイチ、しかも音痴。でも、絵も音楽も好き♪ 素養がなくても楽しめるのが芸術、絵や音楽のいいところ。
 中学生のころ、定時制高校に通う娘さんが我が家に居候していた。そのお姉さんが雑誌『ジュニア それいゆ』をみせてくれた。そこには、中原淳一描く、モダンで目のパッチリした洋風の少女が描かれ、華やかな世界に魅入られた。その中原淳一と同時代の挿絵画家が高畑華宵である。
 『高畠華宵-大正・昭和☆レトロビューティー』を開くと、子どものころよく見かけた絵でなにか懐かしい。子どもの記憶に残るほど世間に行き渡っていたようだ。その挿絵を紹介したいが勝手に載せられないので、図書館や画集でどうぞ。

          高畠 華宵   (たかばたけ かしょう)

 1888明治21年4月6日、愛媛県北宇和郡宇和島(うら)町(宇和島市)で生まれる。
             本名、幸吉。
 1902明治35年、高等小学校卒業を機に大阪へ出て、日本画家・平井直水に入門。
 1903明治36年、*京都市立美術工芸学校日本画科へ入学(現・京都市立芸術大学)。
    自費でパリ万博見学・日清戦争従軍日本画家、久保田米僊(京都)
   http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/.preview/entry/770549853a458a0ce347b35081f96ec9

 1904明治37年、父の死去にともない美術学校中退して帰省。
     再び大阪へ。平井画塾へ戻る。このころより、花宵と号す。
 1905明治38年、美術学校へ再入学。
 1906明治39年、上京。
    洋画への関心が高まり、遠縁から学資を受けて関西美術院に移ったが、寺崎広業(てらさきこうぎょう 秋田藩家老の子)の画風への興味から、まもなく美術院を去り、東京へ出る。
  以後、愛媛・京都・東京を転々としながら生活のため、さまざまな仕事をしながら絵画修行を続ける。
 1910明治43年、図案家・杉山寿栄男の紹介で津村順天堂の越山友之と知り合う。
 1911明治44年、越山の縁で、1929昭和3年頃まで津村順天堂の*中将湯の広告図案を描き、新進の挿絵画家として注目される。
   中将湯: 婦人薬。昔、家の薬箱にもあった気がする。

 1913大正2年、『講談倶楽部』(大日本雄弁会講談社)3月号に挿絵を描き、これ以降同社発行の雑誌を中心に、表紙・口絵・挿絵などを揮毫し人気を博す。
 1914大正3~1918大正7年、第一次世界大戦。
  --- 第一次大戦後、職業をもつ女性が増え始め大正11年には「職業婦人の唄」も発表された。しかし女性は男性に従属すべきという考えが支配していた時代、職業婦人には蔑視のニュアンスも含まれており、職業婦人がようやく定着していくのは、大正12年の関東大震災後から昭和10年ごろにかけてとなる。

 1924大正13年、鎌倉の稲村ヶ崎に「華宵御殿」とよばれる豪奢な家を新築。
    『日本少年』 『婦人世界』 『少女の友』 『少女の国』 『主婦之友』 『三越』などさまざまな雑誌の挿絵や表紙絵をなどを手がけ、華宵全盛時代となる。
    華宵事件: 講談社と画料問題がこじれ絶縁状態となる。これにより、主な仕事は実業之日本社発行の雑誌にうつる。

 1925大正14年、華宵の作品をあしらった「華宵便箋」発売、爆発的な人気を呼ぶ。
  --- 華宵が描く人物は「華宵顔」とよばれる男女とも化粧をした妖艶な容貌をもち、あまり性差が見られない。ヨーロッパの挿絵画家からの影響も見られる退廃的で淫靡、かつ都会的な作風は、少年・少女向けの雑誌の挿絵画家としてはかなり異色であった(田島奈都子)。

 1927昭和2年、
  --- 華宵が郷里の地を踏んだのはわずか数回であった・・・・・ なぜ帰らない? それはなつかしい少年の日の夢を、現実の故郷に行って壊されることを怖れるからです。私は死ぬる日までなつかしい少年の頃の夢をそのままに抱きつづけたい。(「高畠華宵物語」『少女の友』1927年9月号)

   「戦争とメディアと少女たち」大木優子
  --- 昭和初期、少女向け絵葉書、ファッション画などの印刷文化の核をなしていたのが雑誌であった。文芸誌、美術誌、科学誌などの多様な専門誌が戦前早くから分化していたなかで、女学生は一般的に「少女の友」(実業之日本社)や「少女倶楽部」(大日本雄弁会講談社)に代表される少女雑誌を読んだという。国民精神総動員運動がすすめられ、雑誌の統制が強まると、「少女画報」(東京社)のように統合や廃刊を余儀なくされる例も・・・・・
 各誌に特徴を与えていたのが挿絵画家の仕事である。彼らは文章に添える 挿絵やカットのみならず、表紙絵、口絵、題字、附録にいたるまで、雑誌の視覚的な要素を広く担った。だからこそ、そのイメージを知る人は圧倒的に多く、大衆に向けて強い影響力を持ち得ていた。少女たちの<繭>でありえたものの多くは、いわば雑誌から拡散していった挿絵画家たちによるイメージだったと言えるだろう(「現代の目606」東京国立近代美術館ニュース 2014年 6 – 7 月号 )。

 1931昭和6年以降、挿絵の仕事を少しずつ減らし、日本画制作に専念する。
 1935昭和10年、明治・大正・昭和三代の美人を描いた、六一双の屏風「移りゆく姿」を完成する。

  --- (森屋のポスター)「森屋」は現在(平成15)も函館駅前にある創業133年の老舗の百貨店である・・・・・ ポスターが描かれた昭和10年頃は、百貨店が東京や大阪以外の地方都市にも開店し、全国的に店数が増加した時期でもあった・・・・・ 北海道でも華宵人気は絶大で、華宵自身も北海道の雄大な自然に心酔したという(『高畠華宵』松本品子)
   2020令和の現在、コロナ禍の前から、地方の百貨店は閉店が目立つようになっている。商業活動を長く続けるのは難しい。

 1945昭和20年、敗戦。
    戦前期に人気と名声を誇った華宵だったが、戦後はあまり恵まれなかった。やがて生活が困窮し、養子の高畠華晃を追って渡米し永住を夢見る。
    一生独身を通した華宵は、弟子の井上充と養子縁組をし、高畠華晃を名乗らせる。肖像画家となった充は、横須賀に店をもち、アメリカ兵の注文を受けていたが、仕事が少なくなり渡米を考える。
 1958昭和33年、渡米資金をつくるため、華宵御殿を売却、材木座の貸家に移転。
 1959昭和34年、華晃がハワイに渡ると、華宵も後を追う。在米邦人の招きを受けて渡米、ハワイで歓迎される。日本画教室を開いたり、個展もしたが、贅沢な生活を改められず、やがて華晃の足手まといになってしまう。
 1961昭和36年、華晃と移ったロサンゼルスから、帰国。

 1964昭和39年、兄の計らいで兵庫県明石市明石愛老園に入園。
    落ち着いた環境で「キリスト像」など再び日本画の大作に取り組む。
 1965昭和40年、「華宵の会」。東京在住の弁護士で華宵ファンの*鹿野琢見と親交を結び発足する。
    鹿野琢見: 弥生美術館館長。同美術館には、竹久夢二コレクションもある。

 1966昭和41年、上野松坂屋で「華宵名作回顧展」開催、再び脚光を浴びる。
    同年7月31日、死去。享年78。
    この年、挿絵画家としては初の勲五等双光旭日章を受ける。多くの作品は東京の「弥生美術館」に収蔵され、愛媛県東温(とうおん)市に「高畠華宵大正ロマン館」がある。


   参考: 『高畠華宵-大正・昭和☆レトロビューティー』(松本品子2004河出書房新社) /  『明治時代史大事典』2012吉川弘文館・田島奈都子 / 『日本人名事典』1993三省堂

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