« 甘美な感傷・華麗な叙情で一世を風靡、高畠華宵(愛媛) | トップページ | G・E・モリソン、柴五郎、東洋文庫 »

2020年6月20日 (土)

戊辰の戦をこえ明治・大正を剛く生きた桑名藩士、加太邦憲(三重県)

 もう3ヶ月も電車に乗っていない。徒歩かママチャリの日々、友人から「遠くへ行きたいねぇ」メール。「同感だよ」と返信、ため息一つ。彼女は長い間ボランティア活動をしてるから、共に活動する仲間も相手先もみんな寂しがっている。
 その彼女と昨秋、姫路・大阪・琵琶湖方面へ出かけた。その折、見事な紅葉さもさることながら、若いころ戦国時代が好きだったので、武将が駆け巡った古戦場でもあると思うと、今さら関西近畿圏には、おなじみの歴史がゆたかで根付いていると改めて気付いた。
 それでこの方面の人物をと思っていたら、桑名藩士・加太邦憲(かぶとくにのり)に出会った。加太の『自歴譜』が国会図書館デジタルコレクションにあり、同書を岩波文庫で読んだ。
 幕末、文字通りの激動の時代、動乱の京都で勤務。藩主とともに幾度となく困難に遭うが屈せず前進する加太邦憲、その生き様はコロナ禍さなかの未体験の社会に戸惑う私たちの励みにもなりそう。
 詳しくは『自歴譜』本編を愉しんでいただくとして、ここでは概略を記しておく。

 地理不明で加太の出身地・桑名が三重県とすぐ分からず、また三重県のイメージも浮かばないのは何故かと気になった。無知なのもあろうが、三重県の成り立ちにも関係がありそう。
 以下、『改訂郷土史事典 三重県』(1982昌平社)より。
  --- 三重県は、伊勢・伊賀・志摩の三国と、紀伊国中の熊野川以北とからなっているが、明治新政府が、この四地域をまとめて一県とするについて、格別の事情があったわけではないらしい。大国である伊勢国を中心として小さい伊賀と志摩をこれにくっつけ、巨大な紀伊国の中から、牟婁郡の中の熊野川以北を分割して、こちらへ所属させ、全体として地域的なバランスをはかった、という程度の、いうなれば便宜的な区域編成だった。
 だから、明治になるまで、三重県の地域が、まとまった歴史的発展をみせたことはなかった(後略)

                    加太 邦憲   (かぶと くにのり)

 1849嘉永2年5月19日、桑名城内・外堀で生まれる。
   ペリーの黒船来航
 1854安政元年6月、近畿に大雷雨、大地震あり桑名も被害甚大であった。
    11月、東海道に大地震(安政大地震)。伊豆下田に津波が襲いロシアのプチャーチンのディアナ号が大破。
 1857安政4年、藩校・立教館に入学。別に私塾で漢学、のちに軍学・武術を学ぶ。
 1863文久3年3月、桑名藩主・松平定敬(さだあき)、将軍・家茂上洛により二条城のため、京都へ赴く。
   松平定敬: 美濃高須藩松平家から松平定敬が初姫の婿養子として第四代藩主に就任。同い年の将軍・家茂と仲が良く、厚い信任を受けた。兄は尾張藩主・徳川慶勝、一橋家当主・徳川茂栄、 会津藩主・松平容保、いわゆる「高須四兄弟」の末弟である。
      この年の夏、邦憲の叔父が全国的に流行したコロリ(虎列刺コレラ)で重体になったが、幸い助かる。

 1864元治元年4月、松平定敬、京都所司代を命ぜられ、京都守護職の松平容保と協力して京都警衛にあたる。池田屋事件や禁門の変はこの兄弟の時代に起こっている。
   10月、京都にいき父と同居、所司代屋敷広間番を勤める。
 1865慶応元年2月、父が勤番を解かれ共に桑名に帰る。
       8月、句読師(今の小学校教員)を命ぜられ、藩校の下級生徒に四書五経の素読を授け、上級生に『左伝』『史記』などを教える。
 1866慶応2年、18歳。京都勤番を命ぜられ上京、二条城の二条口番士を勤める。
 1867慶応3年、御所外郭内、葉室侍従邸の警衛、所司代邸の広間番を勤める。
    5月、京都勤番を解かれ帰国。道中、伊勢神宮のほか諸宮の御札が降り、歌詞に「ええじゃないか」の囃子をつけて、集団で町や村を踊り歩いていたので旅行者はしばしば引き留めにあい、酒を強いられ迷惑被った。桑名藩兵制改革。
    10月14日、徳川慶喜、大政奉還。
     
 1868慶応4年1月、鳥羽伏見の戦い。 桑名藩は会津藩とともに戦ったが、攻撃され、淀まで退いた。ところがこの時、それまで友軍として山崎を守っていた藤堂藩(津藩)から、急に砲撃を加えられた。この突然の裏切りに、桑名藩をはじめ幕府軍側は総崩れ、大阪城にむかって敗走した。桑名藩主・定敬、慶喜と共に江戸に走り、のち柏崎分領(遠隔地にある領地・飛地)で謹慎。藩内は恭順・主戦の二派に分かれ、主戦派は越後で戦い破れて会津へ、定敬は仙台へ行き榎本艦隊を頼り函館へ走り新政府軍に抵抗した。
    9月8日、明治と改元。一世一元の制を定める。

 1869明治2年、定敬は函館で降伏すると東京で取調べを受け、桑名に移され、尾州藩ついで津藩へ預け替えとなる。明治5年まで謹慎を続けた。
 桑名城および領地は東海道筋最大の藩であり、かつ藩主・定敬の親戚である尾張藩の管理下に置かれ、重臣から足軽まで、在桑名の藩士771名が城下の8か所の寺院に収容されて謹慎。
 この間の情勢、混乱のさまは『自歴譜』に詳しいが、全国諸藩も同様の困難があっただろう。
   8月、隠居を命ぜられた定敬の跡を継いだ松平万之助(定教)が桑名藩6万石(元は11万石)を継いだ。そのとき、藩の大目付・森陳明は、自藩君臣の罪いっさいを自らかぶり、東京深川入舟町の藩邸で切腹、決着をつけた(『郷土資料辞典・三重県』1997人文社)。
  12月、加太邦憲、家督を相続。馬廻役を命ぜられる。洋学を志すようになる。

 1870明治3年、洋学修行のため郷里を出発。海路、東京に行き八丁堀の藩邸に入る。
    村上英俊に入門、フランス語を学ぶ。次に、神田神保町の箕作麟祥の塾に入り近くの大学南校に通学。学資が尽きたころ、郷里の先輩、立見尚文(たつみなおぶみ)が藩に学生奨励を献策、藩から学資を得られることになった。
    立見尚文: 戊辰戦争、西南戦争、日清・日露戦争に出征、のち陸軍大将。

 1871明治4年7月、廃藩置県。桑名藩、安濃津県(のち三重県)
     8月、大学南校をやめ司法省明法寮学校に入学、官費生となり法学を修める。
 1873明治6年、父の同僚・鵜飼兵衛門の娘と結婚。
    司法省はフランスからパリ大学教授ボワソナード博士を招聘。顧問兼教授とする。

     ボアソナードBoissonade: 法学者。司法省法学校、和仏法律学校などで法学を講義、刑法・民法など起草(民法は民法典論争のため施行延期)。井上外相の条約改正案の外国人判事任用を批判、条約改正反対運動に影響。

  --- ボワソナード博士の人となり広量にして懇篤、しかのみならず能く学生の心理を解し、一家の見識をもって教授したる人なり・・・・・ 学生をして学問に倦まざらしめ、愉快に学問せしめたれば師弟よく和合し、一同敬慕深甚なりき。彼の帰国に際し、窮乏汽車賃なき我々は、徒歩夜行にて横浜に見送りたり(『自歴譜』)

 1876明治9年7月、司法省法学校第一期生を終え、司法省出仕。
 1877明治10年、西南戦争。
     桑名は朝敵となったことから、差別を受け肩身の狭い思いをしていたので、西南戦争には怨みを晴らすためと、400名もが出征。
 1878明治11年、翻訳『民法釈要』。
    以後、『仏国県会法詳説』『仏国刑律実用刑法部』やボアソナード講義『民法草案』などの翻訳。
     8月、竹橋事件。銃声を聞き、司法省に駆けつける。
        余談。このとき、陸軍士官学校三期生・柴五郎らが学校に駆けつけると、銃器弾薬を渡され、曹長に引率されて鍛冶橋ないの陸軍省に行き、そこから桜田門、ついで赤坂御所の守衛についた。事件の翌朝、五郎ら生徒隊は守備を解いて帰校。

 1884明治17年、文部省御用掛・東京法学校長
 1885明治18年、文部省兼務帝国大学部長心得兼務。
 1886明治19年1月、翻訳課長。3月、判事となり大審院詰めとなる。
     4年3ヶ月かけて世界一周。
     3月26日、横浜からヨーロッパに向け出航。5月5日、フランスのマルセイユ着。次いで、ドイツに至る。8月、ロシア、ポーランドへ。
 1888明治21年、ベルリンを出発。このとき丸山作楽と同行、ミュンヘンに至り、さらにイタリア、オーストラリア、ハンガリー、スイス、オランダ、ベルギーへも行き、アメリカ経由で帰国。

 1890明治23年8月、大津地方裁判所長
     京都第三高等中学校法学部事務、嘱託
 1891明治24年、43歳。京都地方裁判所長
    5月11日、大津事件おこる(大津地方裁判所長・千葉貞幹)。    
    10月28日、濃尾大地震

     大津事件: 滋賀県大津で来日中のロシア皇太子を警備中の巡査・津田三蔵が襲い、傷を負わせた事件。政府は犯人の死刑を主張したが、大審院長・児島惟謙は拒否。普通謀殺未遂罪、無期徒刑の判決で司法権独立を守った。 

 1894明治27年、日清戦争。弟・青木頼茂、友人・立見尚文出征。
 1896明治29年12月、東京地方裁判所長
 1898明治31年6月、大阪控訴院長。
    4月、八丈島・小笠原島に出張。裁判所がなく条約改正にあたり設置の必要が生じたため。
 1904明治37年、日露戦争

 1905明治38年春、リュウマチにかかり療養に半年かかる。また、眼疾にもかかり引退を決心。依願休職。
 1912明治45年/大正元年、清国・朝鮮を旅行。『自歴譜』に紀行文。
  ?年、 貴族院議員
  ?年、 維新資料編纂会
 1923大正12年9月1日、関東大震災
   1925大正14年、普通選挙法。護憲三派内閣により改正された衆議院議員選挙法。
 1929昭和4年12月4日、死去。 享年80。

|

« 甘美な感傷・華麗な叙情で一世を風靡、高畠華宵(愛媛) | トップページ | G・E・モリソン、柴五郎、東洋文庫 »

旅行・地域」カテゴリの記事

歴史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 甘美な感傷・華麗な叙情で一世を風靡、高畠華宵(愛媛) | トップページ | G・E・モリソン、柴五郎、東洋文庫 »