東奥義塾創設、東奥の西郷・菊池九郎

 5月の連休、渋滞のニュースで思い出した。例年、夫の運転で渋滞の高速道を往復、よく車酔いした。ある時、例によって夫の故郷へ向かう途中、気持ちが悪くなり車を降りてしゃがみ込んだ。一息ついて車に戻ると、小一の息子が
「お母さん行きたくないの?」言った覚えはないけど、「嫁は・・・・・」が顔にでてたかな。そういえば、帰りは酔わない。
 やがて、夫の故郷への想い、南アルプスの麓の果樹園の暮らし、お祭りなど行事に馴染んだ頃には酔わなくなった。
 ともあれ、どの国どの地で生まれ、遠く離れていようとも故郷は拠り所。かけがえのない場所なのだ。しかし、ひとたび戦争が起こると根こそぎ破壊されてしまう。
 2022年ロシアのウクライナ侵攻。
 目を覆いたくなる惨状に世界中がウクライナを案じている。誰もが終戦を願い祈っている。

 さて、今から150余年前、日本は戊辰戦争さ中であった。
 その戦いに敗れた東北諸藩の士は、薩長土肥の藩閥政治の明治を生きなければならなかった。そしてその生き様は、あくまで言論で抵抗する者、技術や学問で活路を見いだす者、かつての敵の懐に飛び込み新知識を得る者など様々である。
 弘前藩(津軽藩)の菊池九郎はかつての敵、鹿児島(薩摩藩)に遊学し英語や砲術を学び、村田新八や西郷隆盛を知った。
 筆者は菊池九郎を東海散士・柴四朗の縁で名だけは知ってはいたが、党遍歴に少し驚いた。当初は自由党、その後、同志倶楽部・立憲革新党・進歩党・憲政党・憲政本党という具合である。現代も党を変わったりするが菊池九郎はかなりの党遍歴である。一体どのような政治家だったのだろう。

    菊池 九郎

 1847弘化4年9月18日、弘前城下長坂町(青森県弘前市)で生まれる。
   ?年、 藩校・稽古館で学ぶ
 1868慶応4年/明治元年、弘前(津軽)藩士として戊辰戦争に参加。
 1869明治2年、藩主に従い上京。藩名で慶應義塾に入って英語を学ぶ。
   次いで鹿児島に遊学。英学校や兵学校、さらに村田新八の大隊付きとなり、砲術の伝習、兵制を研究して藩主に報告。
   九郎は慶應義塾の入学で自由進歩と私立学校の必要を学び、鹿児島行きによって、「我が知るところの西郷は洵に至誠の具現せる英雄」西郷の人物を学んだ。

 1872明治5年、帰郷後、私学の建設を計画。旧弘前藩主はそれに賛同して旧藩校の施設を提供、東奥義塾が創設された。
   青森県はキリスト教の伝道が盛んであったが、東奥義塾は当初よりアメリカ人教師ジョン・イングら外国人教師を招き西洋文化の移入につとめた。東奥義塾を中心とする人脈は宗教活動のみならず、政界や言論界でも活発に活動した。
 1875明治8年、県は勧業寮からリンゴなど洋種の果樹苗木の配布を受け県庁構内に植えた。青森リンゴの始まりである。

 1877明治10年、西南戦争。
   西南戦争終結により、反政府運動は武力から言論へと転換し、自由民権運動が高まった。津軽の共同会(菊池九郎・本多庸一ら)、八戸の暢伸(ちょうしん)社がその中心であった。これに対抗する改進党系も活発な政治活動を行った。

 1879明治12年、『青森新聞』発刊、記者として小川渉・陸羯南(新聞『日本』を創刊)が活躍した。
   <けやきのブログⅡ 2018.11.10会津藩教育の沿革を著した小川渉(福島県)>
   
   東奥義塾の関係者による自由民権派の共同会が結成されたが、県内にはこれらと反目する県会議長・大道寺繁禎や笹森儀助らの勢力があり、明治10年代のインフレーションに苦しむ士族や都市部の細民を代弁していた。

 1880明治13年、菊池九郎・本多庸一(キリスト者のち青山学院長)らは弘前に集まり、檄文「四十万同胞に告ぐ」を作成、県民に呼びかけた。
 1881明治14年、青森県東津軽郡長。
   東奥義塾関係者は『青森新聞』を買収、のち『東奥日報』刊行。
   10月、弘前事件。山田県令が大道寺繁禎・笹森儀助(『南東探検』出版)らと、菊池九郎らを招き、融和を招くが失敗。

 1882明治15年、青森県会議員当選。
   東奥義塾、法学専門・予備科をつくる。
   『陸奥新聞』が発刊され、こちらは県令支持の論陣をはる。
 
 1886明治19年、青森県北津軽郡長。翌20年、青森県測候所長兼務。
 1888明治21年、後藤象二郎が来県。
   12月6日、『東奥日報』創刊。 青森県最初の新聞『北斗新聞』の流れを汲み、後藤象二郎が青森に来たのがきっかけで大同団結運動の機関紙として菊池九郎を社長として設立。株主のうち22名が青森の豪商豪農で占められ、機関誌でありながらも主張は地域・地方主義であった。
 のち、菊池九郎が社長をひいたあと経営難になり個人経営に移行。日露戦争以降、経営が安定、紆余曲折を経て不偏不党を掲げる。

 1889明治22年、弘前市長となる。
   市制・町村制施行にともない弘前市会議員選挙が行われ、大同派がすべてを占めた。市長候補3人のうち内務大臣の許可を得て、菊池九郎が初代市長になる。

 1890明治23年、第1回総選挙。九郎は青森3区から出馬して当選。以後9回連続当選を誇る。
   当初は自由党所属であったが、その後同志倶楽部・立憲革新党・進歩党・憲政党・憲政本党に所属。
 1891明治24年、日本鉄道、青森・上野間開通。
   当時の青森県は民権派である九郎らの大同派勢力が強く、板垣退助一行の県内遊説は大盛況であった。

 1896明治29年、山形県知事を務める。内閣は第二次松方内閣(松隈内閣)。
   5月28日、三陸大津波で死者345人。
 1898明治31年3月、憲政党内閣で農商務省農務局長。
   10月、弘前で第八師団発足。
 1901明治34年4月、東奥義塾、経営困難になり弘前市立に変更。

 1904明治37年、日露戦争。第21議会、衆議院全院委員長に選ばれる。

 1905明治38年、菊池九郎の性格と評判。
  ―――初期議会以来青森県より選出せられ、一回も落選の運命を見たることなき幸福の議員なり、而もその名を知る者は世間甚だ稀にして、今回全委員長となるに及びて始めて彼の存在に心付きたるもなきにあらず、蓋し議員必ずしも討論演説すべき義務なきのみならず、近事議員事務の進歩するに従ひ、演壇に登りて発言する者と、議席に在つて賛否を表する者との二種に区別せられ・・・・・ 菊池氏の如きは亦此の唖議員の一人也。然れども世には知らざるが故に言はざるものあると共に知って而して言はざるもの者あり・・・・・ 菊池氏かつて東奥の西郷と称せられて人望頗る郷党に高く・・・・・ 大隈伯かつて彼を表して曰く、菊池九郎は名士なり彼は特絶したる長所を有せざれども、其の人品の高きは滔々たる群代議士に超越すと・・・・・ 思ふに衆議院議員には雄弁智衛に富めるもの少なきにあらずと雖も、徳操気節の以つて衆庶の儀表とするに足ものは極めて少なし。菊池氏の如きは亦珍重に値すべき人物なるべし・・・・・(鳥谷部春汀)。

   <けやきのブログⅡ2015.4.25人物評の名手、鳥谷部春汀(陸奥国三戸郡・青森県)

 1902明治35年1月、歩兵第五連隊第二大隊の雪中行軍、八甲田山で遭難。
 1908明治41年5、第10回総選挙は病のため立候補せず政界引退。
 1910明治43年、東奥義塾、県立に変更。
 1913大正2年8月、弘前市長を辞任。
 1926大正15年1月1日、神奈川県片瀬にて死去。享年80。

   参考: 『明治時代史辞典』2012吉川弘文館 / 『青森県の歴史』2013山川出版社 / 『青森県の百年』1987山川出版社 / 『菊池九郎先生小伝』1935菊池九郎建碑会編 / 『明治人物月旦−政治家』鳥谷部春汀1909博文館 / 国会図書館デジタルコレクション

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2022年5月 7日 (土)

学問にはきびしく、人には温く、科学者・保井コノ

   <沖縄復帰50年 「日本人」の対岸>  ―――沖縄から上京した南風原朝和さんは、琉球政府立那覇高校3年だった71年(昭和46)・・・・・日本政府と琉球政府が大学の授業料や在学中の生活費の一部などを負担する「国費沖縄学生制度」に応募・・・・・試験に合格し東工大工学部第4類に入学する希望はかなったが、その後に思わぬ人生の分岐点が待っていた・・・・・希望の学科を選べるが、沖縄学生制度で入学した学生...

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2022年4月30日 (土)

卓球 あれやこれや

 コロナ禍。この間まで開け放しの卓球場は寒かったのに、今は気温が上がりピンポンおばさんは汗びっしょり。ただでさえ無い集中力は途切れ言い訳するも、近ごろネタが尽きてきた。こんな生徒にも拘わらずコーチは手抜きしない。おかげで練習が楽しい。 そればかりか、言われたように「少しは頭を使おう」とさえ思うようになった。 すると、今更ながら「卓球は考えるスポーツ」。気づくのがあまりに遅いが考えないよりまし、それ...

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2022年4月23日 (土)

『日本画の道標』安原成美下図集

 用水縁の桜並木。つい先日まで華やかな桜色が今は青葉若葉、水面をわたる風も心地いい。俳句好きなら一句浮かびそうな好景、でもその方面はまるでダメ。 かといって絵心もないが、絵を見るのは好き。見とれたり、ひきこまれ立ち尽くしたり愉しい。好きな色や線を見ていると、何がなし前向きになるから不思議。 絵は、本のように何頁もなく一枚なのに。しかし、その一枚にかける心意気、精進努力は長い文章もきっと変わらない。...

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2022年4月16日 (土)

お百度まうであヽとがありや 大塚楠緒子

 ロシアに侵攻され何週間も砲撃に曝され困難に陥っているウクライナ。世界にはたくさん国があるのに、戦争を止められない。残酷な報道に目を背けたくなるが、事実はもっと酷いかもしれない。どうか一日も早く平和になりますように、ただ祈るばかり。 明治の日本も外国と戦争をしたが、その当時は反戦の思いをおおっぴらに唱えられない風があった。しかも男尊女卑の時代である。しかしそれでも、反戦を訴えた女子はいた。 与謝野...

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