華族の幼稚園・貧民の幼稚園どちらも隔てなく保育、野口幽香

 1945昭和20年、東京大空襲。疎開する田舎もない父母は東京やその近辺を引っ越ししていたそう。何の根拠で空襲されないと判断し、引っ越したのだろう。ともあれ、戦時中は空き家がけっこうあったそう。
 埼玉県浦和で妹が生まれたとき大変だったと母。分娩台に上がって間もなく空襲警報が鳴りみんな防空壕に避難、母は置いてきぼりにされたそう。警報が解除され、皆が戻ってきたところで無事出産したそう。どんなに怖かったろう。
 その母は、空襲の話をするたび震えていた。戦争体験は聞くだけでも恐ろしいのに今現在、ロシアのウクライナ侵攻が終わらない。
 砲弾が飛び交う様が連日報道され映像を見るだけでも恐ろしい。なのに戦火のウクライナで地下に避難しているウクライナ人、幼い子らを思うと言葉がない。
 それに加えコロナ禍、ウイルス感染もあり気が許せない世の中になっている。何の気なしに過ごしてきた平和な時代が恋しい。
 私たち中高年は平和を享受したが、子どもや若者は何年もマスクに象徴される不自由な時を過ごしている。
 そんな世の中、せめて互いを労らないとなのに、子どもが酷い目に遭うニュースが絶えない。中には、我が子を傷つけ捨てたり、死に追いやる親がいて酷すぎる。 
 幼い子をみると笑顔に、その感情は誰にも備わっていると思ってた。しかし、悲惨な事件をみると思いやりは教育で身につけるものなのだろうか。世の中、人間力が落ちているかもしれない。
 包容力のない社会で生きる子は大変、恵まれない子はもっと大変。一方でどんな家の子でも見守り、力になる人物がいる。
 貧しい家の児はもちろん、恵まれた華族の児も隔てなく保育した野口幽香はその一人である。

   けやきのブログⅡ<2014.10.11星松三郎とその夫人(宮城・高知)>

     野口 幽香     (のぐち ゆか)
 1866慶応2年2月1日、播磨国飾東郡姫路清水(兵庫県)の砲術家の家に生まれる。
   父は姫路藩士・野口野(いやし)。本名・ゆか。
   ?年、幼い頃クリスチャンの私塾に通い、漢学・英学を学ぶ。
 1878明治11年、姫路中学校に唯一の女生徒として入学るも、まもなく退学。
   ?年、裁縫学校に通ったのち、上京。
 1890明治23年3月、高等師範学校女子部(お茶の水女子大学)、第一回卒業生。
   同校付属幼稚園、保姆を務める。

 1894明治27年、華族女学校(明治39年学習院女子部)に新設の幼稚園設立にともない同園に転じる。
   以後、1922大正11年まで園長として活躍。昭和天皇・皇太后をふくむ皇族・華族の教育にあたった。その一方で、貧しい家庭の幼な子が道ばたに捨てられているのを見て心を痛める。
   ―――*安井哲子さんと野口幽香子(ゆかこ)さんは女子高等師範の出身で、同校卒業生の双璧といはれてゐる。哲子さんが光彩陸離たる純金たるに対して、幽香子さんは光消(つやけし)のかかつた純金である。その生涯はかつて世間の口の端に上らぬほど地味である・・・・・ 廿何年一日の如き学習院の教鞭をとり・・・・・ 学習院の幼稚園のある四谷仲町の崖の下は鮫橋(さめがはし)の貧民窟である。
 崖の上は華族の、坊ちゃん嬢ちゃんの学びの窓であり、崖の下は貧しい餓鬼共の集合所である対照がなかなかに面白い更に面白いのは、この崖の上と下に両足を踏まえてゐる婦人のある事である。それは取も直さず野口幽香子さんだ、幽香子さんは学習院幼稚園の主事であると同時に二葉幼稚園の園主である・・・・・(『美人の戸籍しらべ』)。

   安井哲子:1870~1945。女子教育者。東京女子大学学長。
   下田歌子:1854~1936。女子教育者。明治の紫式部と称され宮中に勢力を持つ。

 1898明治31年、ドイツ人哲学者で音楽家としても知られるケーベル博士の慈善音楽会で資金を得ることができた。
   家族女学校附属幼稚園に勤務していた野口と同僚の森島峰(美根)は、貧民の子どもたちにも教育をと思い番町教会の宣教師に相談。慈善音楽会を開催してもらえたのである。
   森島峰:アメリカ・カリフォルニア州に留学、貧民幼稚園について学んでいた。

 1900明治33年、華族女学校幼稚園勤務のかたわら同僚の森島とともに、二葉幼稚園を東京麹町に開設。保育事業にあたった。日本における託児所の最初。
   通勤途上で目にする貧民街の子どもの姿に心を痛め、キリスト教信仰を核とした幼児教育を行おうとしたのである。
 1906明治36年、三大貧民窟の一つ四谷鮫ヶ橋に二葉幼稚園を移転。
   本格的な貧民幼稚園としてスラム街の幼児を終日保育し、また、三歳未満児の保育も手がける。毎日、一銭ずつ持ってこさせ、半分はおやつにし他の半分は貯金して遠足などの費用にて、子どもに希望を与えた。

 1916大正5年、名称を二葉保育園に変更して、内務省所管の保育施設となった。
   「母の家」を付設し、母子ホームの先駆けとなった。貴族や貧民の別なく保育事業に生涯をかけ大きな功績を残した。

 1922大正11年、華族女学校(女子学習院)の助教授、教授を退職。
   この後、事業を譲るまで二葉保育園の仕事に専念。

 1935昭和10年、事業を徳永恕(ゆき)に譲る。
   以後、聖書の研究に打ち込む。
 1942昭和17年から戦後にかけて、皇后への宮中修養講話の進講を行う。
 1950昭和25年1月27日、死去。享年84。

   ―――二葉幼稚園は幽香子さんの犠牲的精神に花が咲いて、今日の盛大を来したのだと云ふ光消(つやけ)しの幽香子さんが世人の気がつかぬ間に女の努力でこれだけの事業を成就したといふのは、余程意義のある事である。・・・・・ 幽香子さんはいかにも柔和な情緒を心に貯(たくわ)ふる人である。多分独身で一生を送られるであらうが・・・・・ 華族と貧民と両方の子女がお母さんに対する以上に愛情を以つて幽香子さんに縋りつくのは誠に尤もな次第である・・・・・(『美人の戸籍しらべ:現代評判』)。

   参考:『美人の戸籍しらべ:現代評判』横山流星1919天下堂 / 『日本人名事典』1993三省堂 / 『コンサイス学習人名事典』1992三省堂 / 『民間学事典』1997三省堂 /社会福祉法人・二葉保育園(120年の歩み)https://www.futaba-yuka.or.jp/history/ / 『明治時代史大辞典』2012吉川弘文館

 

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