アメリカ式捕鯨の導入・魚類の人口孵化、水産業指導者・関沢明淸(孝三郎)
地道に真面目に働けば好い日が来る、世の中も良くなる。
戦後の物の無い時代に苦労した親がそう言い、そうしてきたつもりだが、世の中そう甘くない。世の中、声の大きい者、強い者が勝っているみたい。
それにしてもこのところの物価高、とくに食品の値上げにはまいる。
サンマ・アジが高級魚並み、タコはめっきり少ない。温暖化で海水温が上がったせいで不漁なのかな。まあ、ぼやいても仕方ない
まだ日本が遠洋漁業をしていなかった明治期、水産漁業に貢献した人物を見てみよう。
関沢 明清(孝三郎) せきざわ あききよ(こうざぶろう)
1843天保14年2月17日、加賀(石川県)に生まれる。
加賀藩士・*黒羽織の首領・関沢六左衛門の次男に生まれる。
黒羽織党:藩政・海防などに積極的意見をもち実用の学を鼓吹、揃って黒羽織を着用。
1861文久元年、加賀藩は江戸の軍管操練所に俊秀を派遣。
江戸・長崎に遊学し、江川太郎左衛門・大村益次郎の門に入り、蘭学と航海術を学ぶ。
1865慶応元年、22歳。加賀藩の軍艦軍用方頭級となる。
1869慶応2年4月、稲垣義方艦長、副艦長・関孝三郎と相倶に長崎に行き猶柳艦を購い回航して帰藩。
藩費で関沢孝三郎(明淸)と岡田秀之助、イギリス留学。
―――関沢は藩の密許を得て長崎奉行の目をかすめ、英艦の船底に身を隠してロンドンに渡る。渡英3年、明治元年帰国。・・・・・(『海を越えた日本人名辞典』)。
―――慶応二年、公に学科修行のため一般の航海を許したれば、全国諸藩に於いても俊秀を抜擢して、藩費を以て海外に留学せしめしもの、維新の前後に多し、中にも加賀藩の関沢孝三郎・岡田秀之助を英国ロンドン・・・・・これに個人の私費留学生も加わりて諸種の方面に明治文化の創設者となれり・・・・・(『教育大辞書』)。
1868明治元年、戊辰戦争。
4月、25歳。明治政府軍に属して北越に出陣して転戦、功あり。
8月、藩船・李百里艦に乗り組み、仁和寺宮への献上米、運送を兼ね越後近海を帰港の時、風波で艦は座礁し沈没。
旧藩主に従って再び渡英。
1869明治2年、加賀藩は致遠館で子弟に英学を修習せしめる。
教師は、英学・漢学・数学など34人。
生徒は7~80人。留学帰りの関沢孝三郎らが指導。
俸禄は外国教師 月俸150ドル。関沢らその他は年給米33石以内。
―――英国から帰朝した関沢と岡田秀之助らが教え、英学所は隆盛。
5月、加賀藩士・遠藤友治郎および関沢孝三郎と大聖寺藩士・石川専輔が企図して播劉兵庫の官地を借用し、加賀藩が投資、大聖寺藩も投資したが、大聖寺藩は脱退。
1871明治4年12月、工場がまだできないうちに工部省が自ら経営することとし、兵庫造船所と改め、19年1886川崎正造に貸し下げられて川崎造船所となった(『可能郷土字彙』)。
11月~明治6年9月、岩倉遣外使節団、欧米に派遣。
全権大使岩倉具視・官員48人。副使留学生、関沢孝三郎・金子堅太郎・従者及び学生60人。 計108人。
条約改正予備交渉、諸外国の制度・文物の調査などを目的とし多数の政府首脳を含む随行者が従う。それとともに留学生も派遣され、関沢孝三郎のその一人。
1872明治5年、*正院六等出仕。
正院:廃藩置県後の官制改革で三院制を基礎に左院・右院と設置。
1873明治6年、オーストリア・ウイーン万国博覧会に調査、出張。
淡水養殖法と機械編網法を学ぶ。
―――この機に欧州水産事情を実地に観て以来、水産人として創始期の苦難の道を歩むことになる。この時、漁網の編網機械とサケ人工孵化の知識をもたらしたことは特筆される。・・・・・(『日本近現代人名辞典』)。
1875明治8年、明治政府のもとでオーストリア、アメリカ両国の博覧会に調査出張。帰国後、水産振興の急務を大久保利通内務卿に進言。
1876明治9年、内務省勧業寮に水産係が置かれ関沢が主任となる。のちの駒場農学校(東大農学部の前身)。
水産技術者養成のため、水産伝習所(東京水産大学の前身)創設に尽力。
関沢は水産業の進展には当業者の啓発が不可欠と考え、河野敏鎌農商務卿を通じ、同会開催を進言。以来、民間有志を援助しつつ、水産博覧会の審査部長として活躍。
フィラデルフィアのアメリカ合衆国建国百年記念万博(独立記念博覧会)に出張。
カナダでサケ人工孵化法を調べ、コロンビア州で缶詰製造法を習得、その機械を携えて帰国。人工孵化事業の振興につとめる。
1877明治10年、北海道に官営石狩缶詰所を作らせる。
1884明治17年3月1日、農商務省、第1回水産博覧会を上野で開催。
1887明治20年4月、鯨油精製販売を目的とした日本水産会社を創設。
1888明治21年12月、水産伝習所を創設、初代所長に就任。
水産技術者養成の道を開く。
改良あぐり網の発展に寄与。
1891明治24年、金華山沖でアメリカ式捕鯨を実践。
捕鯨銃を発明したり遠洋漁業の振興に尽力するも事業は不振。
1892明治25年、退官。千葉県館山に拠点を移して会社経営を継ぐ。
房南捕鯨組を興し伊豆近海でアメリカ式槌鯨漁を始める。
1894明治27年、金華山沖でマッコウ鯨を二頭捕獲し、わが国養生捕鯨の先鞭を作る。
1896明治29年、洋式帆船を新造しマグロ漁を行う。
漁業の先進的な実践者であった。
1897明治30年1月9日、死去。享年55。
参考: 『明治時代史大辞典』2012吉川弘文館 / 『海を越えた日本人名辞典』2005日外アソシエーツ / 『可能郷土字彙』日置謙編1942金沢文化協会 / 『日本近現代人名辞典』2001吉川弘文館 / 『教育大辞書』1907-1908教育大辞書編輯局 / 『近現代史用語事典』安岡昭男編1992新人物往来社 / 国会図書館デジタルコレクション