本ほんご本:正岡子規/秋山好古・真之兄弟/
<本>
『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』/秋山好古・真之兄弟
もうだいぶ前になるが卒論のために柴五郎大将について調べ中、会津恵倫寺の柴家の墓参りをした。そう遠くない日に法事があったらしく卒塔婆があったので、ご住職に親族の住所を教えていただいた。そこでお便りをし柴五郎の次女の西原春子さんと孫の照子さんにお目にかかることができた。
東京のお宅に伺うと、面差しが写真で見る柴大将にとてもよく似た品のよいご婦人が迎えてくださった。どこの誰とも知れぬ名もない者にもかかわらずお二人して話をしてくださり、大いに参考になった。
司馬遼太郎さんも見えたそうです。また内山さん(小二郎、陸軍大将・大正天皇侍従武官長)、秋山(好古)さんとは家族ぐるみにつきあいという話もあった。
本編第三部・第4章 米西戦争、カリブの海へ(p359)/第8章 日露戦争(p437)より抜粋。
四月、アメリカはスペインとの戦争状態が存在することを宣言、米西戦争がはじまった。五月、アメリカ艦隊はマニラ湾でスペイン艦隊を撃破し六月、アメリカ軍はキューバに上陸を開始した。
この戦争に陸海軍からそれぞれ観戦武官が派遣された。陸軍はイギリス駐在中の柴五郎陸軍砲兵少佐、海軍はのちにバルチック艦隊をやぶった作戦参謀として知られる秋山真之海軍大尉である。五郎はロンドンから大西洋をこえてキューバに急いだ。このとき真之は五郎に大勢を聞くなど面倒をみてもらった。
秋山真之の三兄は五郎と陸士同期の秋山好古で、この秋山兄弟もまた活躍めざましい明治の兄弟である。そして真之もまたアメリカに赴任する前、海軍軍令部諜報課員として西洋洗濯屋に扮して満州・朝鮮の視察をしロシアの行動を探っていた。
米西戦争については島田謹二『アメリカにおける秋山真之』に詳しい研究があり、柴五郎についてもよく描かれていて興味深い。同書に秋山の諜報報告はすばらしいとあるが、五郎も二十二通の報告を出している。防衛研究所戦史部図書館で五郎の報告を閲覧したが、同書に紛失とある第一・第十九報告もここに所蔵されている。
黒溝台会戦
旅順の陥落で日本は沙河に第三軍を投入する事にした。一方ロシアも援軍を得て、第三軍が沙河に到着するまでに眼前の黒溝台の日本軍を撃破しようと反撃にでた。十万をこえるロシア第二軍に虚をつかれた日本軍は大混乱に陥り、黒溝台を奪われた。それでも日本側は騎兵第一旅団を基幹とする秋山(好古)支隊がロシア軍主力に反撃、沈旦堡を守った。
日本騎兵隊の創設者秋山好古が率いる騎馬隊、秋山支隊は激戦に耐え死にものぐるいで日本陣地を守った。日本軍は師団を順次投入、日露戦争最大の危機と呼ばれる黒溝台の戦闘は一月下旬まで続き、ようやく戦況が日本側に有利になると、クロポトキンが退却した。
この会戦を勝利に導いたのは、なんといっても厳寒積雪の中で困難をきわめつつも増援軍が来るまで防戦、よく持ちこたえた秋山好古その人である。秋山は、
「典型的な古武士的風格のある武将で、もうこの後ああいう人間は種切れになるだろう」(上原勇作)といわれるほどの人物である。無欲で小事にこだわらない、豪傑肌の軍人秋山を部下が慕っていたので、困難な戦いに耐えられたのだろう。そうはいっても、この戦闘の死傷者は一万弱にもなり、兵力が日本の三倍近いロシア軍とあまり変わらず、日本側の死傷率が高い。シベリアの酷寒のなかでいかに厳しい戦いだったのかが思いやられる。
<ほん>
司馬遼太郎『坂の上の雲』でおなじみの秋山兄弟と正岡子規は同郷の友である。子規は『仰臥漫録』に五郎の活躍をちょっと書いているが、兄弟が親しい人物だから、親近感があったのでしょうか。
その正岡子規は“野球”の命名者としても知られる。これを書いている七月下旬は高校野球甲子園予選の真っ盛り、日毎に代表校が名乗りをあげている。そこで甲子園の本と、季節はずれだがスキーヤ一の本を紹介したい。
ちなみに本の紹介を書いたのは2006年そして今年、村上選手と皆川選手結婚のニュースが流れた。二人揃ってのオリンピック、今から楽しみです。
<ご本>
『夢がかなう日』モーグルスキーヤー上村愛子物語(山石やすこ著 学習研究社)
『甲子園球場物語』 (玉置通夫 著 文春新書)
torino 2006 ため息と感動の冬期オリンピックで上村選手は5位入賞。
『夢がかなう日』はイジメに耐え、一人旅をするなかでモーグルと出会い、念願のオリンピック選手になった愛ちゃんの物語。
アスリートとして成長するも「金メダルをとって」の応援がプレッシャー、二度目のオリンピックは自分を見失って失敗しました。泣きたい……でも観客の拍手に励まされて笑顔をとりもどす。「自分を信じてがんばれば、夢がかなう日がきっと来る」。またまたオリンピックをめざしメダルに挑戦です。
限界を超える勇気、厳しい練習と努力、時にイジメ、どれもトップ選手に共通でしょう。それにしても競技中の転倒は4年間の努力が一瞬にして消えるよう。見ている側も痛ッ! 涙がにじむ。
日本はフィギュアスケート荒川静香選手の金メダルを頂点として、女子が大活躍でした。男子だってがんばりました。アルペンスキー回転、皆川賢太郎選手は日本に50年ぶりの入賞をもたらしました。
「悔しさ半分、うれしさ半分。スタートに立てたとき、幸せだと思った。弱い自分に脱皮できたから」でも彼は満足しません。さらに4年後をめざします。
ところで、スキージャンプ大会が甲子園球場であったの知ってます?
『甲子園球場物語』にはおもしろびっくり話がいくつも、ジャンプもその一つ。球場建設には資金から設計施工、グラウンドの土まで多くの人が携わりましたが、なんと牛も一役かっていました。ローラーを引張って地ならしをしたのです。
甲子園の歴史は昭和の歴史、球児が戦争に征くと内野は芋畑に変りました。そして終戦。甲子園は進駐軍に接収されましたが、昭和22年春、球児が戻って来、“センバツ”の観衆は平和をかみしめました。
スポーツっていい。する、見る、関連本を読む、お好みの方法で楽しみましょう。
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