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2009年8月31日 (月)

本ほんご本:山県有朋/大隈重信/伊沢修二/中江兆民/松方正義/岩崎弥之助 

 2009年8月総選挙は与党自民党の大惨敗となった。何とか国民の方を向いて真剣に政治に取り組んで貰いたいという切なる願いの結果と思う。政権を得た民主党がこれからどのように我々庶民の方をむいて政治を実行し、日本を守っていくか見守らなくてはならない。

 ところでわが国初の総選挙は今から119年前に行われた。そのころ日本は幕府が欧米諸国とむすんだ安政五ヶ国やその他の条約により日本は治外法権、関税自主権などを喪っていた。そのため明治政府にとって条約改正は最高の外交課題であった。しかし外交交渉は欧米の利害のために遅々として進まなかった。
 民間では条約改正論議がさかんに行われ、政府は税権を早く取り戻そうとするあまりか外国人裁判官を認めようとした。それがロンドンタイムス紙上にのり、日本に知れると反対運動はますます高まり、大隈外相は爆弾を投げつけられ負傷するという事件がおこった。これにより黒田内閣は総辞職し山県内閣となる。
 ちなみに条約改正を果たすまで年月を要し1894(明治27)年に法権、税権の回復に至っては1911(同44)年にようやく達成するのである。

 山県有朋首相のもと総選挙が行われることになった総選挙の結果と議会の模様は如何?
 その模様は『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』(p288~)から抄出する。

                                                         

 

 総選挙とはじめての帝国議会

 はじめての衆議院議員選挙は小選挙区制。議員定数は300、選挙権は25歳以上の男子で直接国税15円以上を納める者のみに与えられるという制限選挙であった。
 1890(明治23)年有権者数は約45万人、全人口の1.1パーセントに過ぎない。また被選挙権は満30歳以上の男子に与えられた。ちなみにこの当時、柴四朗が納めた直接国税は20円50銭であった。
 東京日日新聞が[裏表定かならず綾に織らるる政党政派]の見出しで3日間にわたり全国各地の政党事情を紹介しているがここでは割愛。

 いよいよ1890年7月1日投票日を迎えた。北海道・沖縄・小笠原諸島を除く選挙区で人口約4千万のうち450,365人だけに投票資格があり、その93%が投票した。
 この総選挙はわが国はじまって以来であったから、取締る政府も経験がなく、選挙人もその知識が浅かったので選挙権は忠実に行使された。後にみられるような選挙干渉や不正行為はなかったのである。
 人々は国会さえ開かれれば藩閥政権はたちまちにして打倒され、税の負担はたちどころに軽減されるものと一途に思いこんでいたから選挙は極めて真剣かつ公正に行われた。
 結果は藩閥政治の打倒を叫んで歴代政府と熾烈な争いをしてきた自由民権派の流れをひく立憲自由党立憲改進党とで過半数をとった。この二党は「民党」の名で総称され、山県内閣は藩閥政府であったから開会前から波乱が予想された。何しろ反政府側が四十議席以上多かったのである。

 また衆議院とともに帝国議会を構成する貴族院(皇族・華族・勅任議員)選挙も行われた。六月の貴族院多額納税者議員選挙で45名、7月の貴族院伯子男爵議員の互選選挙で105名が当選した。初代貴族院議長は伊藤博文。
 貴族院は衆議院とほぼ対等の権限を持ち、衆議院の政党勢力に対抗した

 国会開設祝賀音楽会が東京音楽学校で開催され、伊沢修二校長が祝辞をのべ、ピアノやバイオリンの演奏、祝いの歌「帝国議会開院之頌」が生徒によって歌われた。
  四千万の同胞よ、こぞりて祝へいざ祝へ
  天津日嗣国の憲法、わが日の本は天津日の
  照さん限り富士がねの、動かぬ基いやかたし。

  朝日に匂ふ山ざくら、日本男子が言論よ、
  宝祚(天子の位)隆国家の福、万世に永く守るべき、
  帝国議会開けたり、祝へやいはへ国民よ。

 12月1日、待ちに待ったはじめての帝国議会が麹町区内幸町の仮議事堂で開会された。まず自由・改進の二派が教育の方針、殖産興業、軍備、条約改正の4大政策を出した。次は予算案で歳出の大部分が軍備費という政府予算に民党は民力休養と経費節減を掲げ
 「官制を改めよ、参事官などいらない、俸給も削れ、次官や知事の交際費もいらない、官舎の新築などやめろ
と譲らなかった。予算審議はまるで政府と議会とが喧嘩しているようであった。
 首相と蔵相は予算修正が不当だと反論したが、何といっても政府側は過半数に満たない。政府は解散か内閣瓦解かの岐路にたたされ、陸奥農相を先頭に民党の切り崩しをはかり自由党の土佐派が妥協して、予算案は甚だしい削減をこうむりながらも成立した。辛うじて窮地を脱した山県首相は閉会後辞任して後継に松方正義蔵相を推挙した。

 中江兆民はこの状況に絶望し立憲自由新聞
無血虫の陳列場」なる一文を掲載、予算審議をめぐる衆議院の弱腰を弾劾し、中島衆議院議長に辞表を提出して議員をやめた。

 
 * 余談ながら陸軍出身の山県有朋が首相となったこの年、柴五郎は陸軍省砲兵課員、5月に陸軍士官学校の教官となった。このとき生徒に佐賀出身の武藤信義がいて後年、五郎が退役し武藤が元帥となってからも長く交際があった。
 当時、丸の内に兵営があったが数年前から草原になっていた。現在の丸の内からは想像もつかないが、その一帯は三菱ヶ原、賭博ヶ原などとよばれていた。松方正義蔵相はこの兵営跡地など十万坪の購入を三菱の岩崎弥之助に要請した。三菱は陸軍省に当時の東京市予算のほぼ3倍という128万円を支払って広大な土地を手にいれたのである。

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