日本内外の8月15日
『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』/昭和二十(1945)年
第5部 第6章 日本内外の8月15日
1945(昭和20)年の元旦は警戒警報発令で明けた。この戦争も4年目となり、敵機が頭上を驀進する有様であった。前年11月からB29が東京上空に姿を顕わした。
柴五郎の次女春子(西原中将妻)は空襲で焼け出され、娘二人を連れて着の身着のまま世田谷の柴邸に逃れた。そのとき、
「戦況が厳しいのはわかっていたが、軍人の家なので家財を持ち出したり逃げ出すこともできず、みすみす丸焼けになってしまった」のである。
当時、柴邸には(陸軍大将を退役して15年になる)五郎と長女みつ、春子母子3人、姉望月の息子そして女中と7人が住んでいた。五郎は少し足が不自由になっていたが毎日畑を耕していた。畑は山の上の方にあり五郎はお昼を呼びに来る女中さんを気の毒がって、鐘を鳴らすようにと言った。相手が使用人でもやさしい五郎である。
戦争敗北の流言が広まり始めたころ陸軍士官学校以来の友人内山小二郎(侍従武官長・陸軍大将)が死した。内山と五郎はともに80歳を過ぎて、互いの家を行き来し
「どっちが先に逝くか」などと二人で言い合ったりしていたが、内山に先に逝かれまたさびしくなった。
フィリッピン防衛戦では日本軍の戦死多数で敗戦続きの日本兵は山地を逃げまどった。ついに硫黄島も戦死2万人をだし玉砕した。硫黄島を占領したアメリカ軍はここから日本空襲を援護するようになり、3月9日夜から東京大空襲がはじまった。
前線とかわらず戦場となった東京。江東区は全滅、その焼け跡には高さ2、3メートルのものが幾つもニョキニョキと立っていた。何だろうと近づいてみれば何と、人間の死体が折り重なったものであった。火災と熱風に追われ、逃げてきた人たちが折り重なって人塚になったのである。
空襲に追われた国民は逃げまどい、絶望した。東京大空襲の死者は8万人にもなった。大爆撃は東京ばかりでなく大阪・名古屋の大都市をたたきつぶし、地方都市も炎上し国土は焦土となった。
4月、アメリカ軍は沖縄に上陸したが、日本軍はこれを撃退することができなかった。5月、ドイツが無条件降伏、日本も降伏を考えなければならない時が来た。戦争終結に向かおうという気運がでてきたが、進展しなかった。日本軍はなお沖縄でアメリカ軍と戦う。やっと6月末には死闘もほぼ終わり、アメリカが沖縄を占領した。
沖縄決戦は「ひめゆり部隊」の悲劇をふくめて9万の将兵が戦死、15万の島民が犠牲となった。なんと、犠牲者は将兵より一般国民の死者の方が多かったのである。
降伏以外の終戦はあり得ない時に至っていたが、最高戦争指導会議はなおも最後の一大打撃を与えて、多少とも有利な和平をめざそうと
「洋上、水際、陸上いたるところで、全軍をあげて差し違えの戦法をもって臨み、がんばれば必ずや勝利を得ると、本土決戦を決定したのである。参謀本部の作戦部長は
「頼むは石に立つ矢の念力」で本土決戦を迎えようとしていた。
7月、ベルリン郊外のポツダムでアメリカ大統領トルーマン・イギリス首相チャーチル(のちアトリー)・ソ連首相スターリンが会談し、すでに降伏したドイツの戦後処理方針および対日無条件降伏を勧告するポツダム宣言を発表した。
しかし、日本政府をこれを謀略なりとして黙殺。これに対する連合国の回答が広島と長崎への原子爆弾投下であった。
8月6日広島に原爆投下。8日、ソ連が対日宣戦布告。9日、長崎にも原爆が投下され、この日の御前会議でポツダム宣言受諾を決定した。
原爆の破壊力はものすごく両市とも一瞬のうちに壊滅した。残虐な兵器が使用され、死者は合わせて約40万人にもなるすさまじさであった。
宣戦布告したソ連の軍隊は南樺太・満州・朝鮮に進撃して関東軍を蹂躙した。不意をつかれ、大軍が国境から侵入しても関東軍には押し戻す戦力がなかった。関東軍は劣勢の南方戦線へ兵力をさいていて戦力は2分の1、野砲・銃剣も不足し攻撃どころではなかったのである。
ソ連参戦から日本への引き上げまでに約17万6千人が死亡し、ソ連軍侵攻のさい暴行、略奪事件が発生、混乱の中多くの中国残留孤児が生まれた。関東軍首脳部は率先して家族を避難させ自らも後退した。しかし開拓民や一般居留民の安全を省みなかったから、満蒙開拓団の運命は悲惨なものとなった。
8月15日の午前中、関東地区に250機の艦載機が来襲した。その正午、ポツダム宣言を受諾する天皇の放送が行われた。玉音放送を通じて日本の無条件降伏を知らされた国民は、
「玉音拝し、一億ただ熱涙。大陸に、南海の孤島に、ああわが幾百万の将兵は玉音を拝し奉っていかに悲しく戎衣(軍服)の袖を絞ったことであろう・・・・父母の許を遠く離れて田舎に暮らす可憐な疎開学童たち、玉音を何と聴き、何を偲び奉ったことか」(朝日新聞)。
国民の多くは天皇の声が聞こえなくなっても直立不動のまま、ただすすり泣いていた。
朝鮮ソウルでも総督府従業員は15日のラジオ放送で涙した。反対に日本の敗戦により解放された朝鮮の人々は国民服やモンペを脱ぎ捨て、チマ・チョゴリ姿で街を歩きはじめた。韓国ではこの8月15日を光復節として祝っている。光復を迎え朝鮮の人々は感激したがすぐに自主独立の国家建設には至らなかった。
日本が降伏したその日、米ソ間で分割占領の合意がなり、三十八度線の南はアメリカ、北はソ連が進駐して軍政が実施された。はじめは連合軍の一時的な任務分担に過ぎないと思われたこの分割占領は、朝鮮半島に二つの国を生みだし今に至っている。
たまたまこの辺りを執筆中の2008年旧正月にソウルのシンボル南大門が焼失、600年の重みが一瞬にして消えてしまった。韓国の人々はどんなにがっかりしたことだろう。その悲しみは日本にも広がっている。
満州国は日本が降伏して解体、皇帝溥儀も退位することが決定された。満州国はわずか13年余りで消滅した。溥儀は日本に亡命しようとしたが8月22日、ソ連軍によって抑留された。
中国戦線ではすでに8月10日には日本軍の武装解除に動き出していた。中国はついに勝利したのであるが、喜びにひたる間もない「惨勝」であった。なぜなら内政面で多くの課題を抱え、焦土の復興を考える暇もなく、勃発した国共内戦(第3次内戦)に直面していたからである。
そして21世紀に入った今、中国は北京オリンピック成功に向けて奔走している。台湾はカイロ宣言(ルーズベルトらによる対日戦遂行と対日処理)により、中華民国に返還されることになった。最後の台湾総督の安藤利吉は敗戦処理にあたり、内地人引き上げを終えたのち戦犯として上海に送られ自害した。
軍事基地・公共施設・学校・民間会社が接収され、日本に代わり祖国(中国)からやってきた重慶国民政府、あるいは国民党のものとなった。一般の台湾人の多くは日本の戦争に巻き込まれ、戦病死者は3万人をこえた。敗戦によって被害をこうむったのは日本人だけでない。台湾人も敗れたのである。
戦争終結から63年の今、台湾は総統選挙のさなかで大陸出身者の外省人と台湾出身者の内省人それぞれの代表が選挙戦を繰広げている。
五郎が長くその職にあった参謀本部は、10月15日廃止、72年の歴史に終止符がうたれた。
また陸海軍の外地にいる部隊の復員、武装解除後の軍人が各家庭に帰るのにともない、陸軍は第一復員省、海軍は第二復員省に改組され、復員を推進した。
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