本ほんご本:郡司成忠/白瀬矗/伊能忠敬
《本》
『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』/郡司成忠/白瀬矗
近ごろ夏山登山で中高年や中学生の遭難事故が相次いでいる。冒険ならしっかり準備したうえで出発するのだろうが、便利すぎる現代、自然への畏れを忘れて登っているのではないだろうか。
もっとも準備万端整えたにしても厳しい風雪にさからえない時がある。今から116年前
「郡司大尉の一行はいよいよ来る二十日を期し、晴雨にかかわらず隅田川の上流を発して遠征の途に上ることに決せり」(明治26.3.16朝野新聞)。 明治の文豪露伴の弟・郡司成忠(しげただ)はこうして北の守りにつくべく、占守(シュムシュ)島に向かった。事情は次のようである(本編p303)。
千島探検隊
日本の北方は江戸幕府のころから南下してくるロシアと、カムチャッカ半島と北海道の間にある千島列島で接触していた。そこでしばしば紛争が生じていたが明治八(1875)年、千島列島は樺太・千島交換条約により日本の領土となっていた。
明治二六年三月、福島安正中佐がシベリア単騎横断をしているころ、北方警備と開拓を志す人々が千島へ向おうとしていた。海軍大尉をやめて同志を集め「報効義会」を設立した郡司成忠(幸田露伴の弟)が千島占守島移住を計画し予備兵五十名が隅田川を出発した。
その日、隅田川堤は見送りの人々であふれ、小舟には音楽隊、空には花火と錦絵にもなったが、この壮途は失敗し隊員の白瀬矗(のぶ)らは千島に残り、救援もなく悲惨な孤島生活を三年間もしなければならなかった。この白瀬こそ南極観測船「しらせ」にその名をとどめる探検家、日本人としてはじめて南極大陸に上陸した人物である。
次の千島行きは三年後、郡司は六十余名の同志をひきいて再度上陸し移住を試みた。一同は先住の隊員とともに農業開拓、漁業開発に従事した。占守に漁場を創設し付近各地にも鮭鱒漁場を開設したのである。
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《ほん》
露伴の弟が千島開拓に旅だった同じ年、「二六新報」新聞が創刊され柴四朗は編集同人となるが、ここには創立時から与謝野寛(鉄幹)が在社していた。当時の鉄幹は旧派の短歌を痛烈に批判するなど注目の青年であった。鉄幹についてもっと話したいが、妻晶子を記すときまでとっておく。
今回の隠しテーマは探検、そして子どもだって探検する。おりから今は夏休み、『鉄塔武蔵野線』(銀林みのる・新潮社)の主人公わたしとアキラのように自転車で遠くまで突っ走る少年がいそうです。この本を読んでから、ただ高いだけの鉄塔がかっこうよく見えるから不思議です。
ところで郡司大尉は船で、少年二人は自転車で探検にでましたが、徒歩で探検したのが伊能忠敬、彼の足跡は立派な地図として今に残っています。
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《ご本》
『四千万歩の男』(全5巻) (井上ひさし 講談社)
“人生二山時代”とこの作者はいいましたがまったく同感です。現代は平均寿命がのびて2、30年もボヤッとしていなければいけない。余生が長くなり大変です。
50代前の山と退職後の山と。二つ目の山ともいうべき第二の人生を生きていくには心棒が必要です。作者はその支えを見つける手だてを“伊能忠敬の一生”から「第一の人生でやりたいことを見つけ、第二の人生で本気で取り組む」そう考えたそうです。
忠敬は50歳までよく働き養子先の伊能家を立て直し、財産もふやして隠居しました。それから佐原を出て江戸に住み、幕府の天文方の高橋至時に弟子入り、暦や測量技術の勉強をしました。これだけでもじゅうぶん恐れ入りますが、その先がもっとスゴイです。
次に忠敬がしたことは何と、ボランティア自費で北海道へ測量の旅に出ました。正確な蝦夷地図を作成して力量が認められると、その後は、幕府御用となり73歳で没するまで各地を測量して日本地図を作りました。
「人生二山を二つながら登りきった立派な話」は凡人にはキツそうですが、そこは名手井上ひさし、なぜかハラハラドキドキの事件が起きて、読み手をあきさせません。
それにしてもなぜ夜になると事件なの? 忠敬はいつ眠るの? と案じていたら著者の講演を聴いて謎がとけました。克明な日記が残されていて事実には逆らえない、日記にない時間つまり夜しか小説にできなかったとか。
江戸東京博物館で《伊能忠敬展》(1998年)がありました。その時、実際は5千万歩以上歩いて作られた本物の伊能図がみられました。ほかに緯度を測った象限儀や江戸時代の望遠鏡などの展示物、他に自分の歩幅を忠敬(69cm)と比べたり、触っていい量程車(引いて距離を測る道具)もあって楽しめました。*文中の一つ目の山、今なら50代でなく60代でしょうか。いつかどこかでまた伊能忠敬展があったらお楽しみください。
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