本ほんご本: 河上肇/尾崎行雄/河野広中/寺内正毅
『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』 : 衆議院議員総選挙
2009年8月18日第45回衆院選が公示された。新聞の一面には
“擁立候補初の逆転/「強気」民主「防戦」自民” の見出し(毎日)。
この夏は気候がおかしく、新型インフルエンザがはやったり、どうもいつもと様子が違う。そしておかしいのは気候ばかりでなく日本の社会もゆとりがなくなり、弱い者にしわ寄せがいってる。一票をどうするか考えどころである。
ところで昔は制限選挙で一定の納税額以上でないと投票できなかったから、今ある一票を大事にしたい。
この制限選挙の時代、今から92年前の大正時代に柴四朗「殿閣下事件」という一票を争う事件があった。 その経緯を本編第5部1章・寺内正毅内閣から抜粋してみると、冨の偏りと貧窮、株の下落、国防、教育とどれもが現在の世相と似ている。
柴四朗と選挙「殿閣下事件」
第一次世界大戦(1914~18)は日本に好況をもたらしたが、それは船成金といわれる造船業や鉄鋼など軍需物資、紡績業などに偏り、物価上昇にたいし労働者や下級官吏は月給が追いつかなかった。
「驚くべきは現時の文明国における多数の貧乏人」(河上肇)社会で、友愛会の若手幹部による労働者問題研究会や職工組合などが結成され、「ふえる貧乏人の救済のために内務省が調査する」ほどであった。
このような社会状況の大正5(1916)年、寺内正毅が官僚超然内閣を成立させた。寺内は戊辰戦争、西南戦争に従軍、日露戦争では陸相として戦略計画を推進した。長州軍閥の指導者として政界に転出したのである。
翌年、寺内内閣がはじめて臨んだ議会は早くも議会と政府が衝突、内閣不信任決議案が出され尾崎行雄(憲政会)が提案理由を説明しようと登壇、その時、衆議院解散の詔書が伝えられた。
四月、解散後の第13回衆議院議員総選挙の結果は、「勝った!政府党が勝った」で、寺内首相は「どんなもんじゃ」とご機嫌だった。政友会など政府側は計215、これに対し憲政会ほか非政府側は計164であった。
議席を減らした憲政党本部はさえない。憲政党の柴四朗も「いったんは落選の憂き目」をみたが、実は当選、衆議院議場でほかの七人の補欠当選議員とともに紹介された。これが「殿閣下事件」である。
若松市の当選は若松出身の実業家で新人の白井新太郎が311票、四朗は310票、わずか一票差である。この得票に対し河野広中は、
「柴四朗の敗因は問題ですね。僅々一票の差なんですが、その一票が [柴四朗殿閣下]と記されて無効だというんです。そんな馬鹿なことがあるものですか。明瞭に柴四朗と記され、殿閣下の敬称を附したのだから、これは当然有効ですよ。訴訟ものです」(中外商業新聞)といった。
また大阪毎日新聞も
「若松市はいつも激戦地で、柴氏は苦戦を繰り返している。かつては政友会の日下義雄に敗れたが、今度閣下という尊称を名前の下に書かれたため、一票違いで落選は気の毒だが、いずれ訴訟を提出するだろう」という記事を掲載した。
予想通り、四朗は投票用紙に「殿」「閣下」を書いて無効になった二票について訴訟をおこした。選挙から三ヶ月後の七月六日に判決がくだって勝訴、逆転当選となったのである。
さて選挙後の議会、多数派の支持を得た政府は矢つぎばやに出された内閣不信任案・外交調査会決議案を廃案にし、海軍軍備に関する追加予算などを成立させた。
またこの年、寺内内閣は内閣直属の諮問機関として臨時教育会議を設置した。三十年来の懸案であった学制を改革し、義務教育費国庫負担法を定め、年額一千万円を支出することにした。しかしこの一千万円は市町村小学校費総額の一割にすぎなかった。物価の上昇が激しかったため、国庫負担金の支出にもかかわらず教育費は町村財政を圧迫した。
*寺内首相の士官学校教官時代、生徒の中に柴五郎がいた。寺内は官僚的であり武断専制的になりやすく非難されるが、その人となりは清廉潔白だという。正直に働きさえすれば決して見捨てない人と部下には慕われたようである。
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