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2009年9月 7日 (月)

本ほんご本: 原敬・宮島誠一郎・南方熊楠

 会津人柴兄弟の資料集め中、同時代人の日記には助けられました。ただし“日記はありのままを綴っている”と思いこまないように気をつけました。どうもそうではない日記もありそうなのです。
 たとえば、原敬日記が世に出て

「明治の末ごろの桂園時代―――桂太郎西園寺公望が交替で組閣し政権たらい回し」の経緯がわかったといわれるが、原はメモをとり、見られることを前提に書いたらしい。
 *ちなみに原は爵位勲章の制度に反対で授爵を断り、無爵なので平民宰相とよばれたが、歴代首相のなかで西園寺をのぞいて家柄はもっとも高かった。

 『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』でとりあげた日記、原敬のほかに宮島誠一郎南方熊楠のはどの類だろう。彼らが柴兄弟それぞれと関わった日の記述を見てみよう。

 まずは幕末の京都、米沢藩士・宮島誠一郎と会津藩士・柴太一郎の出会いを「明治の兄弟」第2章「八月十八日の政変と柴太一郎」から
 会津藩公用方(外交役)柴太一郎の京都の住いは三本木にあって、秋月悌次郎(韋

   《 京城日記(宮島誠一郎) 》

 会津・薩摩を中心とした公武合体派が長州を中心とした尊攘派を京都から一掃するクーデター(八月十八日の政変)がおきる直前の京の都

 会津藩公用方(外交役)柴太一郎の京都の住いは三本木にあって、秋月悌次郎(韋軒)ら数名と同居していた。
 ある日、その家を米沢藩士の宮島誠一郎が訪れた。宮島は将軍上洛の供奉をする米沢藩主について上京していた。宮島の【京城日記】によると、漢詩人の藤井竹外宅で開かれる漢詩の賦会に行く途中、会津藩士の宮居を仲立ちとして秋月の許を訪れ、会津藩士たちの会合の場に来合わせたという。

「文久三(1863)年七月十六日。秋月悌次郎広沢富治郎(安任)、大野栄馬柴秀次(太一郎)・・・・、何れも会藩士有名なり、然に肥前藩長森伝次郎来り、楼上会飲始り、甚だ面白し」

 「何れも会藩士有名なり」とあるのが目を引く、この時期京都での会津藩士は人気があったようだ。
 ところで、攘夷をめぐり、公武合体派と長州藩を中心とした尊皇攘夷派が京を舞台に主導権を握ろうとして暗闘が繰広げられていた。
 会津藩公用方の秋月ら五人、肥前藩周旋方の長森(鍋島閑叟はその才能を愛し可愛がったという)、米沢藩周旋方の宮島(のち貴族院議員)が会合したこのとき、
「長州の攘夷決行、イギリスの報復行動」など話題になった。漢詩を通じて藩をこえた交友、公用方、周旋方など人との交流によって情報を入手していたのだ。

     *****  *****

      《 南方熊楠 & 谷干城 》

 前述のクーデターから24年後の明治半ば、太一郎弟柴四朗陸軍中将・農商務大臣谷干城ひきいるヨーロッパ巡回視察団一行中にいた。
 1887(明治20)年6月、視察団は2年におよぶ旅の帰路、アメリカに上陸しニューヨークワシントンフィラデルフィアほかを視察見学し、サンフランシスコでは演説会が開かれた。演説会場には南方熊楠の姿もあった。

 南方熊楠はこのときサンフランシスコのパシフィック・ビジネス・カレッジに入学していたが、まもなく辞めてアメリカ大陸を放浪する。
 その後、イギリスに渡り才能が開花し、19ヶ国語を自由に読み書きできたという天才的な語学力の持ち主は植物学者・民俗学者として立派な業績を残した。しかしこの時は徴兵を逃れるようにアメリカにやってきていたのである。
 その演説会当日の谷と熊楠二人の日記を並べると

  谷干城
「六月三日午後8時より日本人のため設立せる当港の耶蘇協会に招かれ行く。洋人宣教師某、久しく日本にありし人にして能く日本語を談ず。会員三百名計り、皆当港在留の日本人なり。余がため祝詞あり米人教師亦日本語にて演説あり。余もまた生徒のために一言を述ぶ、十時頃帰る」

  ちなみにこの夜の谷干城の演説は『現今大家演説論集』に福沢諭吉「徳行論」などとともに収録されている。

  南方熊楠
「(金)晴 夜福音会(ジェッシ街)にて、谷大臣来り演説す。聴衆四百人ばかり有り。柴四朗もあり、明日の船にて帰国するとの事。
 演説大意は徳義を研て日本人の恥を招かざれとにあり。其他美山憲一も演説し(ハリスも)、マスダススムという人祝辞を読上ぐ」。

     *****  *****

 【原敬日記】: 柴四朗外務参政官

 1915(大正4)年の総選挙は大隈重信主導型で行われ与党が圧勝した。原敬の政友会は第2党に転落した。この選挙には京都府から与謝野鉄幹が無所属で出馬し、妻の与謝野晶子が応援にかけつけたが落選している。

 大隈は内閣改造をし外相は石井菊次郎で柴四朗は外務参政官(後の政務次官)に任命された。
 そのころ原は日記にわざわざ
「柴四朗(外務参政官)」と役職をかっこ書きしている。この“外務参政官”を原は自身が首相になったとき廃止しているから皮肉をこめて書いたように思える。

 また、大正4年12月5日、石井外相は原に面会を求めたが原が留守で会えなかった。翌日、石井にかわり四朗が行くと、
「今度は柴四朗(外務参政官)が尋ねてきた。不在で会えず」
日記の調子や政情からするとわざと会わなかったように思える。

 また、「柴四朗(大浦系)」と書いて総選挙で収賄事件に問われた大浦とのつながりを示したりと、原日記にときどき四朗の名がでるが、そっけなく冷たいと感じる。
 ところが五郎に対しては温く、評価も高い。原敬と柴四朗は、政治思想のほかにも相容れない部分があるのだろう。

 【原敬日記】: 柴五郎台湾軍司令官

 政界と同じく軍もまた藩閥が幅を利かせていて、賊軍となってしまった会津藩出身者の出世は容易ではない。それでも五郎は軍人としての能力、誠実で温和な性格が愛され、やがて実力に見合うように引き立てられる。原敬もまた早くから五郎に注目していたようで日記に、談話の演題まで記している。

「日本倶楽部の晩餐会に赴けり。柴五郎(陸軍中佐)北京籠城中密使を天津に送りたる事に関して談話あり・・・・・ほかに帰朝演説ありたり。」

  
 1919(大正8)年12月、台湾総督明石元二郎が急逝した。明石は軍人だから総督と軍司令官を兼ねていたが、原敬首相が任命した後任の総督は文官の田健治郎で、軍司令官には柴五郎大将が任命された。

 これまで総督すなわち軍司令官であったが、文官総督軍司令官に分かれたため宮中の席次に問題がおきた。
 陸軍大将は総督の上席である。しかし台湾総督は台湾における最高の権威であって、天皇の代理として一切の権力を握って台湾島民に臨むものであったから、上席でないとまずい。

 原首相はこの件を内閣などに相談し、また五郎に対しても田総督に内訓した趣旨を話し、かつ
「今回始めて文武官分れたる事に付、両間の調和には配慮ありたし」と告げた。
 五郎は「言うまでもない」と了承したばかりか、後任にもこの件をしっかり伝え問題が起きないようにした。
 *実際、のちに宮中席次問題がおきたが、その時の福田大将は五郎の心を汲んで対処して大きな問題にならずにすんでいる。

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