本ほんご本: 時勢は妙なもの、東北から大臣
今、地球温暖化は差し迫った大問題である。鳩山首相は温室効果ガス排出量を20年までに90年比で25%削減すると世界に公言「日本人の科学技術力を信じている」と達成の自信をしめした。
孫の世代が大人になったときのことを考えると大いに賛成である。しかし経済界などの反発もあるようでどうやって実施していくのか。また国政の運営は前政権とどう違うのか、日本中が見守っている。もしかしたら世界も。
ところで平成の政権交代は半世紀ぶりやっとという感じだが、過去をふりかえると政権たらい回しの時代があった。日露戦争をはさんで大正のはじめ頃までである。「時勢はみょうなもの」続きをごらんください。
時勢は妙なもの
1901(明治34)年2月、自由民権思想家として大きな足跡を残した中江兆民が55歳で没した。兆民の病がいよいよ重くなったとき頭山満が見舞いに行くと、兆民はものがいえないので黙って手を握り、側の石盤に
「伊藤山県だめ、後のこと気遣われる」と書いて双眼に涙を浮かべたという。
告別式は遺言により青山会葬場で行われた。参列者は追悼演説をした大石正巳、板垣退助、大井憲太郎、頭山満、徳富蘇峰、原敬ほか、兆民の弟子まで千余名にのぼった。参列者の中に柴四朗の姿もあった。
兆民は国民同盟会に参加して対外問題に力を尽くそうとしたが病気になり、医師から余命1年半といわれ思い通りにならなかった。それで病をおして「一年有半」を執筆し弟子の幸徳秋水に原稿を託した。「一年有半」は出版されて今に残るが、幸徳はのち大逆事件で逮捕され死刑となる。
この年、星亨は東京市におきた疑獄事件で逓信大臣を辞職しても政友会院内総務として力をふるっていたが、剣客伊庭想太郎に暗殺されてしまった。米西戦争のおり、ワシントンで星駐米公使と接触のあった柴五郎、国会で議論した柴四朗の兄弟は星の死に何を思ったろう。
その手法が名をもじって“押し通る”といわれるほど強引な星であったが、学問をよくし、欧米のことについても原書を読み研究して知識も深かった。星にはこうした良い面、強引すぎる面、何かと金についての噂があり、ついには無惨に刺殺されてしまったが興味深い明治人である。
同じ年六月、第一次桂内閣が成立する。この内閣は政権が維新の元勲から藩閥官僚にと世代交代したことを示した。明治も30年代半ばに達し世の中が変化しつつあり、国のためだといってもあまりに強引なやり方ではやっていけなくなっていた。
桂太郎首相は巧みに
「党派を操縦」して四年余り内閣を継続した。党派の操縦、それが桂園時代のはじまりの政権たらい回しである。山県有朋の後継者で藩閥の桂太郎と、伊藤博文の次の政友会総裁西園寺公望が、大正二年まで政権を交互に担当した。政権維持のため表面妥協、裏面対立であった。
桂は政権維持のため政友会を無視できず、また政友会も妥協により政権を獲得して党勢を拡大した。原敬は政府援助を材料に桂と取引をし、次期政権を西園寺に譲ることを約束させ、組閣の手伝いをしたのである。
この桂内閣で組閣の手伝いをした原に次いで東北からの大臣がでた。米沢出身の平田東助農商務大臣である。次は福島民友新聞のコラムから
時勢というは妙なものだよ、一山百文と軽蔑された東北からも大臣を出すようになったじゃないか。伊藤内閣に原敬、今度の桂内閣に平田東助、これで二人出た。
東北だから大臣を出すことができぬ、あるいは大臣となるべき人物がないという理由は立たぬ。維新以来政権が薩長土肥の手に握られていたからだ。
原敬も平田東助も、東北人としては大したことはない。山高く水清くして東北に偉人傑士輩出す。この二人は第二流なるものの大臣となるは薩長輩に人物なきを示す。
時は公平なる審判者であり、薩長閥族も東北人士の力を借りなければならぬ時至りたるものなり。東北人士の将来の多望なることを知ろう。
(『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』(第七章日英同盟と日露の対峙より)
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