本ほんご本: 谷干城
過日の選挙で政権交代がなり鳩山政権が誕生しテレビには大臣の引継、交替の映像が多く流れた。新聞には「脱官僚」へ追い風、厚労省「天下り凍結」、「霞ヶ関洗う公約の波」といった見出しがおどる。ほんとうに“政治が変わり、日本が変わる”のか。期待と不安が相半ば、見守っている。
昨年のアメリカに端を発した金融ショックから景気が交替したままどこも青息吐息。地価ばかりか人の気持ちも落ち込んでいる。せめて、天下り、行政の無駄を省いて子どもたちがお金の心配をせずに授業を受けられるようにしてと願う。
税金の使い道がガラス張りではないから、驚くようなお役所の無駄が明かになることがある。悲しいことにこの現実は今も昔も変わらず、明治の昔から行政改革を主張する人物がいた。西南戦争において西郷軍に包囲された熊本城を守り抜いた将軍、谷干城その人である。
谷は子爵で陸軍軍人でありながら、「農民のために減税」「行政整理」「政費節減」を本気で叫び続けた。清廉潔白の人、谷干城に興味をもたれたら続きをどうぞ。
田螺 (タニシ・谷干城) 百姓一揆の総大将を気取る
略歴 天保8(1837)年~明治44(1911)年。土佐藩出身の軍人、政治家。
幕末、桜田門の変に接し時勢に目を向けるようになる。軍人であるが、日露開戦、日英同盟などに反対の論陣をはり、その言論はつねに重きをおかれた。
谷は学問をよくするが戊辰戦争で功績をあげ軍事掛に任命される。維新後は藩の財政難を建て直すために改革に力をそそいだ。
西南戦争後、陸軍中将に就任し役職を歴任するも、政府の戦死者や遺族に対する処遇の改善を求めるが聞き入れられず辞任する。
つぎに伊藤博文内閣の農商務大臣となるが、井上馨外相の外国人裁判官をみとめるという条約改正案・鹿鳴館に象徴される欧化主義に反対して辞職する。
そのころ政府の御雇外国人ボアソナード、板垣退助、谷干城の3人の反対意見書「地租軽減、言論の自由、対等条約」が秘密出版されて出回り、停滞していた自由民権運動がふたたび盛り上がる。
谷は増徴(税を今までより高くとる)案が提出されると憲政本党と地租増徴反対同盟会を結成、増税反対の檄文を全国に配布し、
「議会が解散したときには全国の選挙区で、増租案に賛成する議員は一人たりとも選出しないように」と訴えた。
この谷の活動はまるで現代版百姓一揆のようだととして『団団珍聞』は竹槍をもった谷のイラスト「田螺百姓一揆の総大将を気取る」を掲載した。しかし結果は、反対運動の盛り上がりにも拘わらず田畑地租は3分3厘増加された。それは以下のような情けない事情で成立したのである。
増徴反対運動が激しいので山県有朋首相は憲政党の同調をうるため妥協工作をし、さらに議員歳費を800円から一挙に4000円に引き上げて野党議員の買収をはかった。
かくして地租増徴案は、田畑地租を3分3厘に増加して衆議院で可決され、貴族院でも谷干城が反対したが、桂太郎陸相の買収工作で通過した。
政府はこのほか酒造税・所得税・郵便電信電話料などいずれも憲政党との提携で議会を通過させることができた。
政府堤出法案110件もスラスラと通過し、憲政党との提携で思わぬ拾いものをして翌年3月閉会した。
無難に議会を終えることができたのは政府が買収工作を行ったからで、買収に弱い政党の体質が露呈した議会でもあった。
山県が金銭で議会操縦をしたことは当時でも問題となったが、次の議会も憲政本党は政府予算にたいし経常費歳出を節減するよう異議をとなえたが、わずかの修正で通過した。(『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』第5章より)
参考:『谷干城遺稿』全4巻・日本史籍協会編は谷自身の動向が知れるばかりでなく、当時の軍事・政治資料として価値があるといわれる。筆者はこの日記にふれて谷干城に好感を抱いた。
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