本ほんご本: 鳩山和夫 ・ 柳谷謙太郎 ・ 尾崎行雄
2009年8月の衆院選は民主党大勝利に終わった。選挙は終わったがこれからが始まりだ。日本は変わるのだろうか? ふつうのおばさんでも気になる。
還暦をすぎた自分の子供時代をふりかえり、小学生の孫の行く末を考えると“時代がとぶように変化している”のを感じる。どうかいつの時代も「真面目に働く者がちゃんと生きていける、どの子も教育を受けられる」世の中であってほしい。
鳩山由紀夫氏が次期首相に決まり、祖父の鳩山一郎元首相の名が上がっているが、ここでは曾祖父の鳩山和夫を『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』から抜粋してみたい。
戊辰戦争で敗れ賊軍となった会津藩士のかなり人数が今度は政府側の兵士として、1877(明治10)年の西南戦争に出征する。わが柴四朗も元会津藩家老の山川中佐の別働隊の臨時将校として熊本に出征した。
四朗はそこで熊本城を死守した谷干城将軍と再会し、その縁からアメリカ留学のつてを得た。
1879(明治12)年渡米した四朗はハーバード大学、のちペンシルバニア大学で勉学に励んだ。援助があったとはいえ楽な留学生活ではないから、日本の雑誌や新聞にアメリカの近況などを送稿し足しにしていたらしい。その一にサンフランシスコ近況があり、そこに鳩山和夫が登場している。
四朗と鳩山はサンフランシスコで顔を合わせて12年後、千島艦事件のさいには国会に上奏案を提出している。のち鳩山は衆議院議長となる。
二人ともに長く国会議員として活躍するが、その間の政党の動きはついたり離れたり、新たに創設したりとめまぐるしい。それは今も同じようだけど、明治人のほうが
“日本国に対する愛着が強かった”そう考えるのは贔屓?
以下の断片だけで判断するのは無理かな。
[米国桑港(サンフランシスコ)近況]1880(明治13)年
清国人移住問題でアメリカと清国は条約を結んだが、外交秘密により詳しいことは分らない。
しかし聞くところによれば、一郵船ごとに7~8割を占めていた清国人を20人内外に減らす、その代りにアメリカの商人がアヘンを輸出するのを禁じた。四朗は
「そうなれば実に両国の幸福というべし」といい、アメリカは清国人は困るが、ヨーロッパからの移住者は大いに歓迎していると皮肉る。
同じ近況で、
サンフランシスコの長官は「社会党のお坊さんで清国人を嫌悪するあまり日本人まで嫌っている。そのため日本の筑波艦がサンフランシスコに入港したとき、知事・陸軍士官・紳士など招いて饗応したが長官は招待されなかった」と記す。筑波は海軍兵学校生徒の卒業遠洋航海の途中サンフランシスコに寄港したもので、歓迎会が開かれ乗組員は喜んで招かれた。会場は中国人町にあるミッションの地下室、在留邦人が初めて開いた歓迎会の主客は80名にのぼった。四朗はこのとき総領事柳谷謙太郎のために歓迎文を起草した。
この日、コロンビア大学、エール大学の両大学で学び帰国の途中寄った鳩山和夫が激励演説をした。
1892(明治25)年、回航中の水雷鑑・千島(705トン)が瀬戸内海で、イギリス船(3000トン)と衝突して沈没、乗組員74人が溺死するという千島号事件がおきた。
この事件はイギリス領事裁判で日本側が敗訴となり、イギリス・ピーオー会社からわずか1万ポンド(約9万円)の賠償金を得ただけで決着した。
領事裁判における日本の不利をさらけ出し
「国権を傷つけるもの」として鳩山和夫、柴四朗らは上奏案を提出した。
*領事裁判
その国に駐留する本国の領事が自国人の民事・刑事の裁判をすること。明治政府にとって条約改正の重要項目であった。
松隈内閣と進歩党
このころ、政党は政府と激しく対立するとともに政党間の争いもあった。大隈重信は立憲改進党を組織したが、今度は立憲自由党に対するために諸党と合同して1896(明治29)年、進歩党を結成した。
四朗もこれに加わり尾崎行雄・犬養毅らとともに総務委員になった。常議員には島田三郎・鳩山和夫らにまじって田中正造の名もある。伊藤首相は進歩党を操縦するため大隈を入閣させようとしたが、板垣退助内相が多年の政敵大隈の入閣を拒んでゆずろうとしなかった。そのため伊藤内閣は閣内不一致で倒れた。後をついだ松方内閣は進歩党と連携して、大隈を外相に起用して連立内閣を組織した。
さて第十議会(議長鳩山和夫)にのぞんだ松方首相は、予算案をわずかな削減で、また重要案件も金本位制の確立・日露協商の公布など成立させることができた。
このとき新聞紙条例を改正し、発行停止の日数を制限したので政界や言論界から大いに歓迎された。
日清戦争で得た賠償金が金本位に必要な金準備の問題を解決したのである。また賠償金により八幡製鉄所建設が決定した。
1902(明治35)年8月、第7回総選挙が行われたが選挙前、憲政本党は政友会と提携をはかり、伊藤博文と大隈重信が会談した。しかし伊藤が桂太郎首相と密約を結んでいたことが判り、政友会内部が混乱し尾崎行雄らの脱党騒ぎとなった。
憲政本党は集会を開き、柴四朗・神鞭知常・鳩山和夫・大石正巳・犬養毅らにより委員会が設置され、党勢拡張に積極的に取り組んだ。
しかし結果は政友会が189名で憲政本党は104名、別の数字では政友190、憲政本党95。いずれにしても憲政本党は第二党に甘んじることになった。
当時、四朗は広軌改築準備調査会に鳩山和夫らとともに属し、民間では東亜同文会の評議員などをしていた。
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