本ほんご本:歴女におすすめ史談会速記録
近ごろ歴史ブームとかで歴女というのがトレンディらしいが自分に当てはめると歴婆か。まあババでもいいが歴史好きカルチャーおばさんとしては歴女のみなさんに、歴史本から知るのも手っ取り早いが、自分で調べる歴史をお薦めしたい。
幕末明治だとかなりの日記や文書が残されていて、時間と手間を惜しまなければいろいろ知ることが出来る。とはいえ巻紙に筆でさらさらの手紙はそうかんたんに読めない。
国会図書館・憲政資料室で明石元二郎から柴五郎へ宛てた巻紙の手紙を見つけたものの全く読めない。カウンターへ行って読解をお願いしたら
「一字や二字ならともかく全部なんてとんでもない」と叱られた。まったくその通りで、返す言葉もなかった。
それはさておき活字になった資料なら難しい漢字が出てきても辞書をひき読める。幕末明治から昭和初期までの歴史が好きな人におすすめしたいのが維新史料編纂会『史談会速記録』である。
『史談会速記録』は明治25年から昭和13年(1892~1938)まで続いた例会の談話を掲載した機関誌。たいていの図書館で取り寄せ可能であるが冊数が多いので目録から興味のある事件の記録を読むとよさそう。
戊辰戦争や鳥羽伏見の戦いなど敵味方だった者が膝つきあわせ、お互いの思い違いを修正したりする場面もみられる。徳川将軍の暮らしぶりから幕末政治史の側面など、当事者によって語られなかなか興味深い。ただ年数がたってからの話なので思い違いなどもあり完全ではない。しかしそれを割り引いても当事者の話から当時の雰囲気を味わうことができる。
ちなみに、この速記録ははじめから敵味方の隔てなく会合し速記録ができた訳ではない。歴史は勝者が語るで、はじめは勝者の側からのみだった。
史談会と会津藩
さて明治も半ばになり政府もそれなりに自信をつけてきたのだろう。この頃になると幕末維新の史談、佐幕方の話が公然とできるようになった。
維新の敵味方が酒杯を交せるくらい世の中が落ちついてきたのである。もちろん拭いきれない反感や不満はあるし、国民の多くは苦しい生活を強いられ世は安泰といいきれない。
しかし帝国議会の開会を待つばかりとなった1889(明治22)年8月、江戸開府三百年祭で東京市内が賑わい、上野公園では彰義隊戦死者の慰霊祭も行われた。
明治維新からわずか20数年、激動期を生抜いた人々が生存してい、官軍の将が決戦の相手だった賊軍の将兵を引上げて援助し、新国家に人材を提供した話もある。
戊辰戦争で会津に攻めこんだ政府軍の谷干城は会津の家老山川浩を陸軍に推薦し山川の活躍の場を与えた。また会津少年柴五郎も賊軍出身だからと人を差別しない熊本人に広い世界へ出て行く道をつけてもらっている。
このような雰囲気の中で幕末維新資料調査団体の結成がはかられ島津・毛利・山内・水戸の四藩が命ぜられた。
古老の体験談を勤王方にかたよらず佐幕方の人物も採りあげ、旧藩の史料も集めるなどして速記録を編纂しようとしたのである。ただし、はじまりの頃は
「なにぶん勝手放題なことをいい、争論になると銘々が知ったことをいう。またありのままを言うと決闘状が来る。お山の大将我れ一人。薩長の方は勝武者で鬼の如し、どんな都合の悪いことでも都合の良いように直すことができる。が、佐幕、謀反人と目された方は本当のことは言えなかった」(谷干城)という。
会津藩がまだ正式会員でない時代、柴太一郎は京都守護職時代の上司、秋月悌次郎につれられて史談会へ出席した。
「勅使三条公の東下について」語ったがこの会合からまもなく秋月が没した。
秋月は熊本第五高等学校の教師時代、同僚のラフカディオ・ハーンと親交を温めた。ハーンが秋月を「神様のような人」と讃えているのは知る人ぞ知るエピソードである。史談会ははじめ有志の雄藩大名で組織されたが宮内省直属のもとで会員を拡張することにし、旧大名家全部を網羅することになった。そこで
「敵と味方を忘れて互いに国事を、忌揮なく言尽くし得らるるという精神で、維新歴史の大関ともいはれる会津家が、今日まで直接御関係なされぬと云ふは、かねて不満足に思っているので一日も早く会津家の加入を希望」した。
加入願わねばならぬ旧会津家の代表人として秋月に出席を求めたのである。そのとき秋月は自分よりも若いまた記憶力がいいとして太一郎を推薦した。
太一郎は旧藩主家にも話し確定して代表人になれば出席すると返事をしたが、山川兄弟が会津家の『京都守護職始末』を編纂しているのを知って山川健次郎に出席を交渉した。しかし健次郎は
「聞き学問であるし事実に当たったものでないから、自分より柴氏」と互いに譲り合い、けっきょく太一郎が代表人になった。
速記録にある太一郎の談話は、
「戊辰戦争・スネル」「鳥羽伏見・容保の進退」「長州再征の顛末ほか」「征長事件前後、文久3年朝廷改革、公武一和」「天王山一揆の話」などである。のち会津家当主・松平容大が史談会に加入した。
(『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』第5章・史談会、旧会津藩を勧誘より)
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