上野不忍池で競馬があった、馬場辰猪
JR上野駅、すっかり模様替えして構内が新しくなり華やいでいる。それでも中央改札口上の壁画は昔の面影をとどめ、公園口改札が待ち合わせ人であふれているのは変わらない。西郷さんも変わりないが銅像を見上げる人々の風俗人情はどうだろう。
上野といえば動物園、そして博物館や美術館が幾つも、それに芸大もあって老いも若きも愉しめる。
秋の彼岸、奏楽堂の演奏会でヴァイオリンとオルガン、チェンバロの演奏にうっとり、そして秋の盛り展覧会を二つ三つ鑑賞して目の保養をした。上野の楽しみは尽きないばかりか知的雰囲気が漂い豊かな気分にひたれる。
不忍池の周辺を散歩し上野広小路に出ると商店、映画館に寄席、デパート、ガード下にはアメ横があり庶民的雰囲気がまたいい。食べて、見て、笑って、買い物してとこれ又楽しみは尽きない。上野は芸術と教養、食と娯楽が混在してる不思議な空間だ。
ところで上野公園の生みの親をご存じですか。明治のはじめ長崎医学校のオランダ人教師ボードワン博士です。博士は大学病院建設予定地を視察、戊辰戦争で荒れたままの上野の山を見て「景勝閑雅な由緒ある地は公園にするべき」と政府に忠告しました。政府は意見をいれて日本の公園第一号としたのです。
ハスの花の名所、不忍池にはボートが浮かび水面も周囲も親子連れやグループ、二人連れなどなど賑わっているが、かつてここで競馬が開催された。
競馬場の写真が下町風俗資料館2階にあり、池を見下ろしながら眺めると今と昔が一目瞭然。
その競馬のある日、不忍池のほとりで二人の明治青年が日本の将来を憂え、国のとるべき道を語り合った。一人は柴四朗、もう一人は馬場辰猪・・・・・以下、続きをどうぞ。
1888(明治21)年、柴四朗の友人馬場辰猪がアメリカのフィラデルフィアで客死した。辰猪は板垣退助と同じ土佐出身で自由民権思想の啓蒙に尽くした人物である。
大阪事件(旧自由党急進派が朝鮮と日本で事を起こそうとして逮捕された)に連坐、無罪放免となったものの日本を離れる羽目となった。辰猪はすでに胸を病んでいたが渡米した。
アメリカでも自由民権運動の闘士は日本公使館に監視されていた。それを辰猪は知ってか知らずかアメリカ各地で日本政府批判の講演会を開いたり、新聞に投稿したりした。
たとえば、英文小冊子「日本の政治の状態」には、わざわざローマ字で “頼むところは天下の世論。目指す敵は暴虐政府” と刷込む。
また渡米民間人としてクリーブランド大統領をはじめいろいろな人物に会って、日本政府の事情を話すなど大胆な行動をとっていた。その活動は日本政府にとって好ましいものではない。
その馬場辰猪がアメリカで死んだという知らせが届くと、柴四朗は在りし日の友を偲び追悼文「祭馬場辰猪君」を自分が主宰する雑誌『経世評論』に掲げた。抜粋すると
「回顧するに君と初めて握手相見て肝胆を吐露し、筑を撃って慷慨し、共に国家の為めに力を致さんと誓ひしは天津条約まさになり、宴を浜の離宮に張り大使の勲功を祝せし日なり。
君と不忍池畔の楼上に登り、東京の府民また大使の功労を慰むるための競馬、角力を俯瞰して覚えず涙下りし夕なり。
ああ何ぞ上下こぞりて偕楽の秋に当り、君と散士と憂憤世を慨し時を悲みしか之れ君と散士の心情のみ之を知る。
ああ君逝く、それ誰と共にか此の心情を語らん。ああ哀しいかな(後略)」
馬場は演説家として知られるが、女性との語らいも自在であったようす。それを証明するような逸話を弟の文学者馬場孤蝶が伝えている。
「辰猪の墓前でフィラデルフィアの上流家庭の令嬢が涙ぐみ膝まづいていた」と。風采がよく今風にいえばイケメンだったのでありそうな話である。
ちなみに入院中の辰猪を見舞い、亡くなると葬式をしたのは三菱の三代目岩崎久弥である。久弥は四朗と同じペンシルバニア大学に留学中でフィラデルフィアに滞在していた。この大学にはトーマス・グラバーの息子倉場富三郎も留学していたが、同窓会名簿(三菱経済研究所蔵)によれば中退している。
日本でも辰猪の遺髪葬送式が増上寺で盛大に行われ、辰猪を愛した福沢諭吉、谷干城その他各界から数百人が参列した。
四朗の友人ということから馬場辰猪に興味をもったが、論文は英語(『馬場辰猪全集』全4巻に採録)で学問も筆者には難しすぎて分からない。しかし、
「わたくしは、かれの学識よりもかれの雄弁よりも、人格の点において、かれを明治十年代における真の自由民権主義者として尊敬するものであり、その人となりを後世に伝えたいと思う」(西田長寿)。
これに同感であり、辰猪が袂を分かった板垣退助よりもっと知られてよい人物だと思う。
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