本ほんご本:寺田寅彦『柿の種』、『佳人之奇遇』批評高田早苗
『柿 の 種 』寺田寅彦・岩波文庫
世の中には自分の理解を超えるものが山ほどあるが、それらの事象をすらすらわかってしまう優秀な頭脳もかなりある。リンゴが実っていれば紅くておいしそうと思うだけ、落下するリンゴから万有引力なんて想像もつかない。
そのイギリスの大学者ニュートンを俳号にした人物がいる。それは学者で随筆家の寺田寅彦、『我輩は猫である』の寒月のモデルとしても知られる。
寅彦は夏目漱石に英語と俳句を教わり俳号もいくつかある。「牛頓ニュートン」「薮柑子やぶこうじ」など学問から身近な自然まで幅広い。俳号にしただけでなくどの分野でも人に抜きんでているからその随筆はおもしろい。随筆集の一冊が「柿の種」であるが、最初の「冬彦集」から最後の「橡の実」まで数多い。
ところで、お茶受けの「柿の種」、さるかに合戦の「柿の種」、寅彦の「柿の種」、どれが一番おいしいか。まず、寺田家へよばれて『柿の種』を味わってみませんか。
『柿の種』より抜粋
――― 棄てた一粒の柿の種 生えるも生えぬも 甘いも渋いも 畑の土のよしあし
――― いつか、上野の音楽会へ、先生(夏目漱石)と二人で出かけた時に、われわれのすぐ前の席に、23、4の婦人がいた。きわめて地味な服装で、頭髪も油気のない、なんの技巧もない束髪であった。色も少し浅黒いくらいで、おまけに眼鏡をかけていた。しかし、後ろから斜めに見た横顔が実に美しいと思った。インテリジェントで、しかも優雅で温良な人柄が、全身から放散しているような気がした。(略)
音楽会が果てて帰路に、先生にその婦人のことを話すと、先生も注意して見ていたとみえて、あれはいい、君あれをぜひ細君にもらえ、と言われた。もちろんどこのだれだかわかるはずもないのである。
――― 自分は冬じゅうは半分肺炎にかかりかけている(略)泥坊のできる泥坊の健康がうらやましく、大臣になって刑務所へはいるほどの精力がうらやましく・・・・。
明治・大正・昭和を生きた寅彦は若い日、『佳人之奇遇』を愛読した。同書の一節をかなりの明治青年が暗唱したようだ。たとえば・・・・・以下続きをどうぞ。
「佳人之奇遇」余聞
夏目漱石や森鷗外の現代語訳がでている今、百二十年も前の小説『佳人之奇遇』を読むのはたいへん。しかし明治青年にとっては漢文調のリズムがうけて愛唱された。
当時の読者には南方熊楠・幸田露伴・寺田寅彦・秋山真之・堺利彦・山川均・幸徳秋水などがいて幅広い。徳富蘆花は同志社の学生仲間と朗唱しながら自分たちが動かすべき社会を思ったというし、宮崎滔天は朝鮮の金玉均と会ったさい作中の詩を吟じて聴かせている。その人気ぶりを三宅雪嶺は
「人が盛んに吟詠したのは雲井龍雄の詩に次ぎ、東海散士柴四朗氏の佳人之奇遇に挟まった詩であって相応に長いに拘わらず、学生がしきりに暗唱して吟じた。“反動”といはうか、変形といはうか、佳人之奇遇は明治文学に異彩を放った」と。
三宅雪嶺がいう“反動”とは
「アメリカやヨーロッパと交流が開かれてみると、アルファベットのかんたんな西洋語にくらべて、漢字が多い日本は負担が大きいから、これを改革しようとカナ文字論、ローマ字論などが盛んにいわれるようになっているとき、漢文崩しの文章が流行したのは奇異である」。
ベストセラーになったくらいだから好評だったが、明治中頃でさえ「漢文崩しの文章が流行したのは奇異である」から、文章はもとより内容について不評もあった。
たとえば、
「一字一句として愛国憂世憤怨悲愴の語ならざるはなし。云はば愁歎場の通し幕とも申すべきものにして、見物人をして一たび顔を解きて胸を撫で下すの暇なからしむ、小説としては斯様の事を忌む方適当なるべし」(時事新報)といった調子で手厳しい。
そればかりか高田早苗(半峰)にいたってはもっともっと辛い。高田早苗は東京専門学校(早稲田大学)の機関誌「中央学術雑誌」で西洋風の批評を試みる。はじめに坪内逍遥「当世書生気質」、続いて東海散士「佳人之奇遇」を評した。
「布衣半峰居士今や謹んで我大日本政府の農商務大臣兼陸軍中将子爵谷干城公の秘書官にて在します米国理財学士兼社会学士東海散士福島県士族柴四朗君の高著佳人之奇遇と題する一小説を評判せざる可らず布衣半峰居士伏して惟みるに佳人之奇遇と題したる東海散士の高著は小説にあらざるなり……」という嫌みな書き出し、続けて幽蘭、紅蓮の美女も形無し
「登場人物はみな散士の意見を代表する電話機、文章巧なりといえども小説の心なし」と批判はとどまるところを知らない。
批評の後半は、ウォルター・スコット『湖上の美人』から多少の脚色をしているのではないかといい、あれこれ比較して
「東海散士の高著をみるに小説にして小説ならずエピックにしてエピックならず一種特別妙不思議の代物なりと謂わざる可からず」といいきる。これは小説というものに対する考え方が根本的に違うから仕方がないかと思うが、
「学士や政治家が戯れに小説を編もうとするには抱腹の限りだ」とまでいう。
「思え、シーザー、アレキサンダーは空前絶後の豪傑なるも僅かに一時代を併呑するに過ぎずシェークスピア、スコットは布衣草莽の文人なるも永く後世を支配するにあらずや」
時代は明治前期、文学の革新にはこのくらいの気概が必要だったようである。
ともあれ大ベストセラー「佳人之奇遇」は批評の格好の材料となり、批判も注目された。半峰が批評したとき四朗はヨーロッパ周遊中で不在だったので、著者の留守中に批評したのは不届き千万であると、半峰を非難する手紙が届いたという。
( 『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』第2部第3章より)
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