本ほんご本: 中島敦
2009.10.10 毎日新聞夕刊の一面は 日中韓首脳三人が手を取り合っている写真に「東アジア共同体」協力の大きな見出し。戦争は無くなっていない世界だけれど、三首脳の笑顔にほっとするものを感じた。
日本、中国、韓国の間に実際は競争もあり、駆け引きもあるだろう。でも向かい合って話ができるのは三国の過去をふりかえると良い前進だと思う。
終戦の年から64年たつが、とにもかくにも終戦を生きて迎えることができた人は苦労しつつも生きのびただろう。しかし戦時中に力つきた人もいる。文学者中島敦もその一人だ。
中島敦:昭和期の小説家。代表作「山月記」「光と風と夢」「李陵」など。『中島敦全集』全3巻。
中島敦は日米開戦のニュースを南の島で・・・・・
以下、『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』第5部第6章「サイパン島南洋支庁」より
サイパン島南洋支庁
1941(昭和16)年12月8日の日米開戦のニュースを南洋庁職員中島敦はサイパン島南洋支庁のラジオで聞いた。中島敦はこのとき南洋庁に就職していた。
南洋庁は、第一次大戦後、国際連盟の委託により日本が統治した旧ドイツ領南洋群島の行政機関で、第二次大戦の敗北まで存続した。
敦の祖父は漢学者で父は教師であった。中島父子の経歴をみると当時の「日本地図」が見えるようだ。台湾や朝鮮は日本の領土だから親が転勤すれば家族も一緒に任地へ行き、子どもは転校する。
敦は父が朝鮮総督府龍山中学校へ転勤になると、それにともなって京城市龍山公立尋常小学校五年に編入した。中学は京城中学校で修学旅行は満州であった。
中学を卒業した敦は東京の第一高等学校に入学するが帰省中に肋膜炎にかかり、大連の満鉄病院に入院する。休学して別府の満鉄療養所に移りさらに千葉で転地療養した。のち東大を卒業し横浜高等女学校の教員となるが、南洋庁へ就職する。
文学への思いと転地療養をかねて収入と時間的余裕を得ようとしたのである。
パラオに単身赴任した敦の仕事は南洋庁編修書記、植民地用の国語教科書を作るための準備・調査をするのである。
敦はサイパン島・アルミズ島・ベリリュウ島・アンガウル島など近隣の諸島をめぐり公学校を訪問するなど長期出張旅行をした。
翌年正月、敦はサイパン島の南洋庁支庁の年始式にでたが体調が思わしくない。3月に東京出張の許可がでると東京に戻ったが、喘息のうえ心臓も衰弱していた。それでも喘息の発作に悩みながらも「李陵」などを書きついでいたのだが12月、33歳という若さで短い生涯を閉じた。
中島敦が亡くなった1942(昭和17)年は、開戦当初は有利に展開した戦局もアメリカが本格的に反撃を開始すると不利になり、ミッドウエー沖海戦に敗北、アメリカ海軍水陸両用部隊がソロモン群島のガダルカナルに上陸。半年間にわたる激戦の末、海軍航空兵力の大半を消耗した日本軍はガダルカナルから撤退したしかし戦いをやめなかった。
やがてサイパンにアメリカ軍が上陸、マリアナ沖海戦で日本海軍は壊滅的な打撃をうけた。さらにレイテ沖海戦で連合艦隊の主力を失い、日本軍は玉砕、南海の孤島に守備隊を置き去りにした。これより後、サイパン基地を飛び立ったアメリカ軍の重爆撃機が日本本土を空襲しだしたのである。
*ちなみにペンネームの中井けやきの由来は、中島敦と中里介山の“中” 井上ひさしの“井”大好きな3人の作家から1字ずつもらった。けやきは自室の窓からみえ、これも大好き。
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