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2009年10月21日 (水)

『ある明治人の記録』柴五郎、義和団事変・北京籠城

 いよいよ20世紀も終わる、世紀末ともなると何か起きるんじゃないか。妙にはしゃいだ2000年からおよそ10年、新世紀になっても自らを幸福と言える人は少ないようだ。便利な世の中になったが社会に不公平感がただよい、やりきれないニュースも多い。

 ところでその前の世紀末1900年は何があったのだろうか。日本で言えば明治33年は日清戦争に勝利した日本が“西欧列強”に伍してアジアに進出、北清(義和団)事変に遭遇した年である。このとき北京で“北清事変の花”と謳われる活躍をしたのが柴五郎である。
 五郎はイギリス駐在武官のときに米西戦争の観戦武官を命じられロンドンからカリブ海に赴き、その後、清国公使館付武官を命ぜられ北京で義和団の乱に遭ったのである。

 1898年、アメリカはキューバの独立戦争に介入し、米西(アメリカ・スペイン)はカリブ海で衝突する。日本は観戦武官を海軍・秋山真之(日露戦争で連合艦隊の作戦参謀)、陸軍・柴五郎の二人を派遣した。柴砲兵少佐はアメリカ軍艦に日本人が7~10余名、炊事夫や小使として乗り組んでるのも報告してる。軍事のみでなく、こうした下働きにも目がいくところに五郎の人間性がみてとれます。
 柴五郎は後に陸軍大将にまで上るが、成人し志を得るまでに辛酸をなめます。『ある明治人の記録』は、戦に敗れ賊軍とされた側の辛苦を声高に言いつのるでもなく、たんたんと述べて却って読む者の胸に迫ります。

 柴家は戌辰戦争で祖母、母、姉妹の5人が自刃しました。7歳の五郎少年は生き残り、下北半島に移住しますが食べ物がなく、死んだ犬の肉を喉につかえさせ、父に「それでも武士の子か」と叱られます。

 飢えの日々も学問に励み、雪の中を裸足で通学しました。冬でも浴衣に縄のひも、東京では下僕生活、やがて陸軍幼年学校を受験します。15の春に合格、今なら中高生の少年が
「これで食べる心配無しに勉学に専念できる」と喜んだのです。卒業後は会津を攻めた薩長の明治政府の軍人になるのです。敗者も生きなければなりません。
 当時、五郎と同じく生きるために陸海軍の学校に入り軍人となって日本に尽くした若者は多いでしょう。

 清廉潔白の軍人といわれる五郎の活躍を『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』第3部第6章からどうぞ。

 

      義和団の乱

 清国公使館付となった柴五郎砲兵中佐は前任の青木宣純と交代した。清国は日清戦争に敗北して日本に賠償金を払うため、ロシア・フランス・イギリス・ドイツから借款をし、その見返りに鉄道敷設や利権を求められ西欧列強の餌食となっていた。賠償金は重税となって国民の肩にのしかかり農民や労働者は苦しんでいた。
 そうした中、「扶清滅洋。清朝を助けて西洋を滅ぼそう」と叫ぶ義和団の乱がおこると、すぐに民衆が応じた。

 義和団の乱のはじまりは五月、ドイツの山東鉄道敷設工事に対する山東省民の反抗からで、鉄道を襲いキリスト教会堂を打ち壊した。
「宣教師が来ると後から軍や商人がやってきて生活を壊される」として外国品を奪い、外国文化や外国人を排除しようとしたのである。反乱はたちまち広がり北京を包囲するまでになった。

 北京の公使館区域・東交民巷は治外法権で外国人たちはここに立てこもり、軍艦から水兵を呼び寄せ援軍と救出を待つことにし、出迎えを出すことなった。
 日本公使館からは杉山彬書記生が行ったが、人力車に乗り永定門を出たところで敵の騎馬隊に撃たれて即死した。ドイツ公使も話し合いに出向いたところを撃たれて殺害された。
 北京の各国公使団は再三にわたり清国政府に義和団の鎮圧を要求したが、排外的な西太后は鎮圧どころかこの際、外国人勢力を一掃しようとして北京の外国公使館を包囲させた。

 日本は清国臨時派遣隊(司令官福島安正少将)を派遣、続いて第五師団が宇品を出発、天津に上陸した。日本・イギリス・ドイツ・ロシア・フランス・アメリカ・イタリア・オーストリアの八ヶ国は連合軍を編成し北京救援に向かった。しかし義和団と清国官兵の激しい攻撃にさらされ退却。これにより天津・北京間の鉄道、電線が破壊され北京は孤立、北京籠城となる。

         北京籠城

 さて籠城することになった各国公使館はそれぞれ守備隊を編成し武官会議を開いた。

  イギリス公使のマクドナルド(のち駐日大使)が全体の指揮をがとることになったが、少しすると作戦用兵の計画はだいたい柴五郎の意見できまった。
 それは外国人たちも認める能力はもちろん、人柄もよく誰からも好かれたからである。五郎は英語・フランス語に堪能であったから外国人武官に作戦をよく説明できたし、また連絡文もみずから書いた。
 
人が少ないので義勇隊が組織され、日本人は公使館書記官・電灯会社技師・新聞記者まで参加した。列国それぞれ守備隊が組織されその中にロンドン・タイムス北京特派員のモリソンがいた。
 オーストラリア人ジャーナリストG・E・モリソンは五郎を認め、二人は友人になる。
 6月、五郎は海軍陸戦隊・居留民義勇兵・清国教民の義勇団を指揮し、列国の陸戦隊と協力して公使館区域を防衛することとなった。

 だいぶ前「北京の五五日」というアメリカ映画が上映され、主役のモリソンをチャールトン・ヘストン、五郎を伊丹十三が演じた。この映画は柴五郎をよく描いていないので作り物にしてもがっかりである。

 籠城した人員は4千人以上であるが、義和団は何万という数であった。義和団が北京城外にまで迫るとモリソンはイギリス兵や義勇兵を率いて教民を義和団の虐殺から守り救出し粛親王府に保護した。そこは五郎が離れた所に避難している粛親王の許に危険を冒して行き、借用の許可をえた一郭である。
 
 義和団と清国軍の砲撃は休みなく続き、次第に城外の様子も分からなくなった。防衛線はオーストリア公使館の焼失から将棋倒しに崩されてきた。五郎は各国公使に粛親王府を守るべき事を説き、もっとも攻撃の激しい粛親王府を兵力最小の日本が守ることになった。
 日本の籠城軍は水兵、義勇軍の計61人。ある日、五郎が片腕とたのむ安藤大尉が戦死し楢原書記官も破裂弾を受け、それがもとで死亡した。
  戦死者を出し、籠城者で傷を負わない者は無いというほどの大きな犠牲を払っても襲撃は止まない。日本隊はわずか8名を残すのみとなった。北京の五五日、2ヶ月になろうとするほど長い籠城に誰もが心身共に疲れ果てた。

 北京籠城中における五郎の事歴と勲功は彼の生涯の圧巻で、人望あつく連合国の軍民に頼りにされ、北清事変の花とうたわれた。外国人の目に映った五郎の活躍は、

「戦略上の最重要地・粛親王府では、日本兵が守備のバックボーンであり、頭脳であった。日本を補佐したのは頼りにならないイタリア兵で、日本を補強したのはイギリス義勇兵であった。
 日本軍を指揮した柴中佐は、龍城中のどの国の士官よりも有能で経験も豊かであったばかりか、誰からも好かれ、尊敬された。当時、日本人とつき合う欧米人はほとんどいなかったが、この籠城を通じてそれが変わった。日本人の姿が模範生として、みなの目に映るようになったからだ。
 日本人の勇気、信頼性そして明朗さは、龍城者一同の賞讃の的となった。籠城戦に関する数多い記録の中で、一言の非難も浴びていないのは、日本人だけである。ピーター・フレミング」 (『北京燃ゆ/義和団事変とモリソン』)

 
「柴中佐は小柄な素靖らしい人です。彼が東交民巷で現在の地位を占めるようになったのは、一に彼の智力と実行力によるものです。なぜならば、第一回目の朝の会議では、各国公使も守備隊指揮官も別に柴中佐の見解を求めようとはしませんでしたし、柴中佐も特に発言しようとはしなかったと思います。
 
 でも、今では、すべてが変わりました。柴中佐は粛親王府での絶え間ない激戦で怪腕を奮い、偉大な将校であることを実証したからです。だから今では、すべての国の指揮官が、柴中佐の見解と支援を求めるようになったのです。
 日本兵は、いつまでも長時間バリケードの後に勇敢にかまえています。その様子は、柴中佐の下でやはり粛親王府の守備にあたっているイタリア兵とは大違いです。北京に来ているイタリア兵はイタリア本国の中でも最低の兵隊たちなのだと私はイタリアの名誉のためにも思いたいくらいです (P・C・スミス嬢)」

 このような状況でも天津居留地の連合軍は防御に追われ、進軍するどころではなかった。
 北京からは天津に向けて各国公使館がそれぞれ救援を願う密使を出したが、捕らえられたりして誰も使命を果たせなかった。ただ一人五郎が出した密使が敵地を抜け密書を届けることができた。

「今や全く糧食欠乏し、籠城者の身命旦夕に迫れり、敵の攻撃は日一日と激烈を加えぬ、故に事情の如何に拘わらず、一日も速やかに援軍の来たり救わん事を熱望す」実際、馬も食べ尽くしてしまっていた。
 驚いた連合軍は急ぎ前進する事を決定、返書を密使に託した。そして密使に金を与えようとしたが密使は、
「国家のため、この使節をまっとうしたり」と賞金を断わり、再び返書をもって敵陣の中を北京に戻っていった。この密使は張徳盛といい五郎が捕虜の中から選んで天津へ赴かせたのである。
 
 張は密使に選ばれ釈放されると密書を届けることよりも両親に会えると喜び勇んで天津に向かった。家に帰りついて両親に柴中佐の密命を話したところ、
「天津に集結している連合軍将兵は、わが民衆をみること牛馬のごとく、暴行略奪に明け暮れている。しかるに日本軍のみは規律がきわめて厳粛でしかも勇敢で、まさに天兵というに等しい。今後、柴大人の恩義に報いよ」とさとされた。張はこの言葉に目覚め、ただちに福島少将のもとに五郎の親書を届けたのである。張はこの功によって勲章を授けられ、昭和のはじめまで北京日本公使館の門衛として勤務していた。
 
 柴兄弟にはこのような一種の気概を持った人物との出会いがある。長兄の太一郎も部下に慕われた。戊辰戦争中、越後の戦いに敗れ供の者を故郷に帰そうとしたが離れようとせず、負傷した太一郎の世話をして会津に至り、なお負け戦の苦労をともにしている。兄弟がもつ情と義侠心が人を引きつけるのだろう。

 天津の連合軍は五郎の密書によって籠城者の困難を知ると、後方輸送の都合を顧みず北京へ猛進した。籠城63日にして待ちに待った救援軍の北京入城、西徳二郎公使以下みな笑顔で出迎え、五郎は救援軍の福島少将と固い握手をした。

      

           略奪は許さない

 列国の軍隊が北京に入城すると西太后らは北京を脱出した。そのため北京市内は無政府状態となり、連合軍兵士の略奪事件が続出した。柴五郎は第五師団の指揮下に入り、日本の受け持ち区域で軍事警察衙門長(警務長官)として軍政を担当することになった。

 五郎は日本兵の徴発・押買・略奪を許さず、清国人をよく保護した。そのため五郎の徳を慕って外国軍の管区から移住する住民が続出した。日本の管轄地は商店が多数ならび旅館や劇場まで作られたほど栄えた。
 五郎は温厚な武人であり、手柄を自慢せず情のある軍人行政を行った。戦えば強いが、民政も立派にこなした。

 義和団事変から数年後、総指揮をしたイギリスのマクドナルド公使はロンドンで講演、柴中佐の北京籠城における偉大な功績を
「すべての者がよく働いたが、かりに籠城した外国人たちの命を救った功績を、たった一人に帰することができるとしたら、それは、この物静かで、冷静で、決意にみち、そして奇略縦横の日本将校だった」と讃えた。

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