本ほんご本:『鈴木真砂女集』
縁あって、脚注名句シリーズⅡ『鈴木真砂女集』をいただいた。俳句に疎い自分にとって俳句といえば松尾芭蕉、正岡子規、せいぜい高浜虚子の名前を知るぐらい。
点字ボランティアをしていたとき【『おくのほそ道』をよむ】(堀切実・岩波ブックレット)を点訳し、著者の講演を聴く機会があり点訳本を贈呈したことがる。ちなみに点訳はパソコンなので点字印刷すれば何冊でも製本できる。
象潟や雨に西施が合歓の花
好きな句の一つだ。松島と対比される象潟の情景はもとより中国の伝説の美女西施(せいし)の面影を浮かべつつ美女と国の運命、歴史に思いを馳せる愉しみがある。
芭蕉が死にのぞんで詠んだ
旅に病んで夢は枯野をかけめぐる
死のなまなましい実感が抽象化されていて、自分なりの感慨を重ねやすい。
芭蕉の時代は江戸時代だから昭和平成ともなれば社会も、女性も変わり作風も異なる。「鈴木真砂女集」を開いてその俳句世界の違いに驚かされた。
鈴木真砂女(1906~2003) 略年譜
明治39年安房鴨川、吉田屋旅館に生れる。女学校を卒業後、昭和4年結婚、夫の失踪により実家に戻る。長姉急逝によりその夫と再婚、吉田屋の女将となり俳句もはじめ久保田万太郎に師事。年下の海軍士官と恋。家をでて銀座に小料理屋「卯波」開店、俳句はもちろんテレビに講演にと活躍した。
句集にはそれぞれの句に脚注がつけられ、季語の大切さと選び方の重要さ、俳句の味わいかたが自然にわかるようになっている。俳句に疎い素人が勝手な感想を記すより、気に入った句を紹介したほうが句集のためによさそう。注は脚注からの引用。
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灯籠を水に置く手をのばしけり
ある瞬間の女の動作を捉えただけで、宵闇の水辺の女の、灯籠を流そうとしている艶な姿態が、無駄のない美しい線でこころ憎くも描かれている。
塩つけて鮑あらふやいなびかり
水貝も、家伝のあわびの塩蒸しも、安房鴨川の豊かな海に面した吉田屋旅館の自慢。料理は板前任せながら、目配り気配りの行き届く女将の真砂女だ。
男憎しされども恋し柳散る
羅や細腰にして不逞なり
瀬戸内寂聴は新聞のコラムで、率直に自分の純愛を貫いた恋の話をしてくれたと述懐。羅(うすもの)
行く春や身にしあわせの割烹着
路地に青き空みあげたり震災忌
関東大震災のとき真砂女は17歳。昭和35年、銀座の路地から見上げた9月1日の凄絶な青が真砂女の頭上にある。
秋風やあるひ都電に乗ることも
住まいの晴海団地をでてバスに乗り、仕入れの築地市場へなど真砂女はよく動く。たまたま利用の都電の窓からの風に秋を感じとった。
佃祭よそ者に路地行きどまり
人あまた泳がせて海笑ひけり
ハワイで孫の結婚式。はじめて目にする海の色、ヤシの木陰でも「ハワイには史記がないから句も詠めない」と真砂女がこぼしていたと娘の山本可久子(編者)。
初夢の海すいすいと渡りけり
鴨川の海は太平洋。少し離れて暖流黒潮が流れている。すいすいと渡ることは叶わない。真砂女は夢の中ですいすい渡っていったという。逢いたいと思う人の夢はめったに見ない。
おしくらまんぢゆうする年頃を自刃せり
会津。19人の白虎隊士の墓を訪ねた真砂女は、まだ遊びたい盛りの少年たちが大義の名の下に自刃したことがいたましく涙をこぼした。
『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』で会津の兄弟を描いた作者としてはたった17文字でこれだけ表現できるのかと感じ入るばかり。
生国は心に遠き卯波かな
巻末の一句。生まれ故郷安房鴨川に遠く、後半生のよりどころ銀座「卯波」に腰痛のため立てなくなったが、真砂女は季語「卯波」に思いを託し、句帖にしたためた。それから4年、真砂女96歳で永眠。
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