南極観測船「しらせ」と探検家白瀬矗
南極観測船「しらせ」
1982年に就航した南極観測船「しらせ」が役目を終え、民間の気象情報会社に売却されることになった。そして2代目「しらせ」が11月10日、晴海埠頭を南極航海に向けて出港した。途中オーストラリアで第51次観測隊の本隊をのせ12月下旬に昭和基地沖に到着する予定。
2代目「しらせ」は4隻目の南極観測船ですが“しらせ”命名の由来、明治時代の探検家・白瀬矗(のぶ)を知る人は多いでしょう。
白瀬は陸軍中尉で仙台第2師団配属中から北極探検を志し、予備役となり千島探検隊に加わりました。その時の状況は
千島探検隊
日本の北方は江戸幕府のころから南下してくるロシアと、カムチャッカ半島と北海道の間にある千島列島で接触していた。そこでしばしば紛争が生じていたものの千島列島は樺太・千島交換条約により日本の領土となっていたのである。
1893(明治26)年、北方警備と開拓を志す人々が千島占守シュムシュ島移住を計画した。
郡司成忠(海軍大尉・幸田露伴の兄)は同志を集め「報効義会」を設立し予備兵五十名とともに隅田川を出発した。その日、隅田川堤は見送りの人々であふれ、小舟には音楽隊、空には花火と錦絵にもなった。
しかしこの壮途は失敗し隊員の白瀬矗らは千島に残り、救援もなく悲惨な孤島生活を三年間もしなければならなかった。
(『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』第3部日清戦争より)
白瀬南極探検隊記念館
白瀬は悲惨をきわめた孤島生活にも極地探検の夢を捨てることはなかった。日露戦争のために計画を一時中断したが次ぎに南極を目指す。そして千島探検から17年を経て実行の時を迎えた。
明治43年11月、東郷平八郎元帥が命名した「開南丸」(204トン)で白瀬は27名の隊員らと東京芝浦港から南極に向けて出港した。
日本人としてはじめて 上陸に成功した一行は1年7ヶ月にもわたる長旅をおえて、一人の犠牲者も出さず無事に帰還したのである。歓迎式には5万人の市民が集まったという。
秋田のなまはげ伝承館でなまはげが怖くてよそ見、「白瀬南極探検隊記念館・探検と極地の総合ミュージアム」(にかほ市)のパンフレットを見つけました。裏には南極公園の写真、船は開南丸を復元模型でしょうか。いつか機会があったら行ってみたい。(2009.11.11記)
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