秋山好古
今朝、NHKが“秋山好古が家族に宛てた手紙がみつかった”と自筆の手紙を映し出していた。
会津人柴五郎ファンとしては秋山好古は五郎の陸軍士官学校同期として友人として欠かせない人物である。さっそく拙著『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』から、好古の活躍を引っぱり出してみた。
日露戦争さなか1905(明治38年1月) 旅順のロシア軍が降伏してから2週間後、好古は奉天会戦を前にして黒溝台で自ら創りあげた騎兵隊を指揮して苦戦していた。
黒溝台会戦
旅順の陥落で日本は沙河に第三軍を投入する事にした。一方ロシアも援軍を得て、第三軍が沙河に到着するまでに眼前の黒溝台の日本軍を撃破しようと反撃にでた。十万をこえるロシア第二軍に虚をつかれた日本軍は大混乱に陥り、黒溝台を奪われた。
それでも日本側は騎兵第一旅団を基幹とする秋山(好古)支隊がロシア軍主力に反撃、沈旦堡を守った。
日本騎兵隊の創設者秋山好古が率いる騎馬隊、秋山支隊は激戦に耐え死にものぐるいで日本陣地を守った。日本軍は師団を順次投入、日露戦争最大の危機と呼ばれる黒溝台の戦闘は一月下旬まで続き、ようやく戦況が日本側に有利になると、クロポトキンが退却した。
この会戦を勝利に導いたのは、なんといっても厳寒積雪の中で困難をきわめつつも増援軍が来るまで防戦、よく持ちこたえた秋山好古その人である。秋山は、
「典型的な古武士的風格のある武将で、もうこの後ああいう人間は種切れになるだろう」(上原勇作)といわれるほどの人物である。無欲で小事にこだわらない豪傑肌の軍人秋山を、指揮下の騎兵誰もが慕っていたので、困難な戦いに耐えられたのだろう。
そうはいっても、この戦闘の死傷者は一万弱にもなり、兵力が日本の三倍近いロシア軍とあまり変わらず、日本側の死傷率が高い。シベリアの酷寒のなかでいかに厳しい戦いだったのかが思いやられる。
義和団事変
古武士のようだと伝えられる秋山好古の人柄は外国人も惹きつけた。義和団事変のさい秋山好古は天津駐屯軍司令官となっていたが、袁世凱(中国の軍閥・民国初代総統)の頼みをきいて行政権を清国に返すことに力を貸した。
このことが日露戦争のとき日本軍のために便宜を得ることに役立つが、一つには秋山の豪放磊落で武士的風格が袁世凱を引きつけたこともありそうだ。
義和団事変:『ある明治人の記録』柴五郎、義和団事変・北京籠城
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