柴五郎の諜報報告/秋山真之
写真(陸軍砲兵少佐柴五郎報告・防衛研究所図書館蔵)
筆跡は五郎のものではない
米西戦争、カリブの海へ
1897(明治30)年2月、ハワイ到着の日本移民が手続き不備などにより上陸を拒否され、送還される事件があった。日本はハワイ外相に抗議し、翌年賠償金で解決した。
また、日本はアメリカのハワイ合併を阻止するため大隈外相はアメリカ公使に抗議したりしたが、けっきょくアメリカはハワイを併合した。
ハワイを手に入れたアメリカは太平洋進出をはかり、フィリッピンを植民地にというスペインとぶつかる。スペイン領キューバのアメリカ領事は居留民保護のため軍艦の派遣を要請、巡洋艦メイン号がハバナ港にやってきた。
1898(明治31)年2月15日夜の港内、突然メイン号が爆発し海中に沈んでしまった。この爆沈をアメリカはスペインの機雷のせいだとしたが、スペインは艦内の火薬庫の爆発と主張して結論がでず、これが米西戦争の導火線となる。
260人もの死者を出した軍艦メイン号には、日本人が料理人や給仕とし乗組んでいた。そのうち2人は助かったが7名はハバナ湾にのまれ、金額は不明だが弔慰金をもらった。
アメリカ艦船の司厨部に料理人や給仕として採用されていた日本人を柴五郎も目にして報告している。
4月に米西戦争がはじまり5月アメリカ艦隊はマニラ湾でスペイン艦隊を撃破、6月アメリカ軍はキューバに上陸を開始した。
この戦争に日本陸海軍からそれぞれ観戦武官が派遣された。陸軍はイギリス駐在中の柴五郎砲兵“少佐”、海軍のほうはのちバルチック艦隊をやぶった日本連合艦隊作戦参謀・秋山真之海軍大尉である。
五郎はロンドンから大西洋をこえてキューバに急いだ。このとき真之は五郎に大勢を聞くなど面倒をみてもらった。真之の兄は五郎と陸軍士官学校同期で騎兵の育成者秋山好古。
米西戦争については島田謹二『アメリカにおける秋山真之』に詳しい研究があり、柴五郎についてもよく描かれていて興味深い。
同書に秋山の諜報報告はすばらしいとあるが、五郎も22通の報告を出している。防衛研究所戦史部図書館で五郎の報告を閲覧できる。その一部を紹介する。。
ちなみに写真の「明治31年5月10日、大西洋船中からの第1報告」は、ワシントンでアメリカ政府の従軍許可を得たらアメリカ軍主力がいるタンパに赴き、司令部について視察する」というもの。
報告は全3ページ(写真)(印度本社ニ向テ)「今後ノ注文ヲセラレタシ 今後小官ニ送ラルヘキ諸書類中急ヲ要スルモノハ米国華盛頓本邦公使館宛ニ差出サレタク其他不急ノ分ハ従前通リ英国倫敦本邦公使館ニ宛差出サレタシ」
五郎はアメリカ陸軍の動員と編成、武器、義勇兵についても諜報を送った。この時点のアメリカ軍は弱かったので見たままを報告した。ところが後々まで「アメリカ軍は弱い」という観念が抜けなかったいう説もある。いかにすぐれた報告でも明治の諜報を年代も考えず受け継いだ昭和の軍人がいたらしい。その他の諜報は続きをどうぞ
その他の諜報
日本は脱亜入欧、アジアでなく西欧列強の仲間入りをしたから、五郎を含めて駐在武官の役割も大きい。五郎の報告は充実して優れ日清戦争前、朝鮮清国を探訪した報告などは作戦に大いに役だった。
英国駐在中にはヨーロッパの情勢、ほかに上海で孫文の動静、あるいはモンゴルに出向くなど五郎の行動範囲は広く諜報ものこっている。
また五郎の報告で忘れてならないのは義和団事変に関したものである。
後々チャールトン・ヘストン主演映画「北京の55日」が作られ、伊丹十三演ずる柴五郎“中佐”も登場する。ただ柴五郎を知る人には扱い方に不満が残ると思う。
下記の秘報は司馬遼太郎『坂の上の雲』の一場面にも用いられている。この他にも報告を見てみたい、知りたいという方は防衛研究所図書館でどうぞ。
「秘報第223号 明治33年6月9日於参謀本部印刷
明治33年5月24日清国北京ニ於テ 陸軍砲兵中佐 柴五郎報告
外国公使連合シテ義和団鎮圧方ヲ清国政府ニ申込ム」
*以上参照 『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』中井けやき著
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