岩崎彌太郎を「明治の兄弟」(東海散士ほか)で見てみる
NHK大河ドラマ主人公の坂本龍馬とともに岩崎彌太郎の評判がかまびすしい。テレビを見て彌太郎が汚れていてびっくりしたが現代とは貧窮の程度が違う。違和感があっても不思議はない。
江戸から東京への変革期、陸軍大将柴五郎だって少年の日、食うや食わずで冬に浴衣一枚で巷を彷徨した。変動の時代、困窮に苦しみ「坂の下」で涙にくれた人は多く、ドラマの彌太郎の衣裳髪形は歴史に近いかもしれない。
ただし岩崎彌太郎にとって坂の下に長居は無用、坂の上にとびあがり雲にも届く活躍をした。『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』で彌太郎をみるとキーワードは“船舶輸送”。
九十九商会
土佐の岩崎彌太郎は若い日、吉田東洋の門下生となり、大政奉還で名をあげた後藤象二郎と知り合う。のち長崎の開成館出張所土佐商会に赴任し、坂本龍馬に示唆され海運業に着眼する。明治になり土佐藩払い下げ船3隻を元に「九十九商会」を創設、海運業の基盤とした。社名を三菱商会として現在に続く三菱の祖となった。
台湾出兵
明治4年、台湾漂着の漁民を土着民が殺害する事件があり、近代国家となってから最初の海外派兵を決定。同7年、日本軍は台湾に上陸、牡丹社などを平定し交渉の末、清国側が償金50万両(テール)を提供するのと引き替えに撤兵した。
このとき三菱商会は政府の軍事輸送を一手に引受け、政府の信頼を得た。政府は三菱を援助育成し外国汽船と競争させ、翌年、横浜と上海間に週一回の定期航路を開設させた。これが日本最初の海外定期航路である。
西南戦争
明治10年、西郷隆盛が挙兵し明治政府は維新以来最大の危機に直面した。大久保利通ら政府は大規模な戦争準備にかかり、大量の兵を九州に輸送するため三菱の船舶を利用したのである。
このときの政府と西郷の対立を白柳秀湖(作家・社会評論家)は次のように評した。
西郷の背後には私学校の生徒、壮兵・職業的武人、約40万の士族という失業者がいる。これに対して大久保、木戸の背後には、高杉晋作、大村益次郎らによって試みられ、山県有朋によって創設された鎮台兵すなわち農民と町民の軍隊があった。
西郷のたのむところは幾百年来の武士道をもって錬磨されてきた壮兵の精神気迫であり、大久保らのたのむところは新に編成された軍隊の団体的訓練とそれに応ずる文明の利器とであった。
薩軍に剽悍決死の勇気があれば政府には租税という財力がある。しかしながらここに一つ薩軍にとって不利益な点があった。軍隊及び軍需を輸送する船舶というものがなかった。
三菱は船舶徴用命令に従い全力をあげて兵の輸送にあたる。このとき三菱の利益について法外な儲けだったと明治以来、噂話がたえない。
儲けの幅はともかく三菱は西南の役で資産を大きく伸ばし、沿岸航路を外国人の手から奪回するのである。戦争の利益は三菱に限らない特需の方では、三井物産、大倉組、藤田組、松本重太郎などいろいろな物資の用立てをし、軍需ブームが起きた。
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