トルコ金閣湾で釣り、谷干城と柴四朗
今年は「日本トルコ友好120周年」にあたりその方面のニュースを見かける。120年前というと明治23年、トルコの軍艦エルトゥールル号が紀州沖で遭難した年である。
長い航海の末、ようやく日本にたどり着いた艦が大任を果たして帰る矢先、大島村樫野崎で嵐の海にのみ込まれた。使者は587人、助かったのはわずか69人であった。生存者は村人の手厚い看護を受け、日本政府の軍艦でイスタンブールへ戻ることができた。この事故をきっかけにトルコ人と日本人の間に友情が芽生え今も続いている。
それより前の明治19年、農商務大臣谷干城は伊藤博文総理より欧州巡回視察を命ぜらた。谷は秘書官に東海散士こと柴四朗を抜擢しヨーロッパの国々を巡り軍事、産業、国会や法令など国のあり方までも視察して回っていた。その年末はトルコ滞在中であった。以下『谷干城洋行日記』から
トルコ、当時はオスマン帝国では皇帝に面会
「日本の進歩は速やかなる事驚くべし。何とぞ当国と貿易交通の道を開き互いに交通いたしたし」との言葉をたまわった。
その日は大晦日、谷干城、柴四朗ほか勲章を拝受しホテルに帰った一行はシャンパンで乾杯した。
明けて1月1日はイスタンブール市街を散歩見物する。市内の様子が平日と変わらないのは暦が違うからだろう。
【*イスラム・ヒジュラ暦:太陰暦、1年354日で11日のズレがある】便船がないので翌2日はボスポラス海峡の入江ゴールデン・ホーン(金閣湾)で釣りをした。
葡萄酒、オレンジなどを持参、アジのような小魚を3人で140~150匹ほど釣り上げ焼いたり酢漬けにしたりして充分に食べた。
5日、便船が来てダーダネルス海峡をへてギリシャに向かう。
6日、船中にて「トルコの衰退、漸く社稷(国家)維持するも政の組織宜しからず。役人に忠実の人少なく、万事姑息に安んじ内治(政治)振るわず・・・」
谷の日記はトルコの衰退と現状を深く観察し書いているが、翻って日本の現状に思いをはせ心配しているのが行間から伝わる。
谷は当時すでに“行政改革”唱えていたが平成の今、120年たっても出来ていない。「仕分け人」がもてはやされる訳だ。
| 固定リンク
コメント