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2010年3月24日 (水)

幕末の外交官アーネスト・サトウ

 幕末から明治にかけて活躍したイギリスの外交官アーネスト・サトウ日光中禅寺湖のほとりに建てた別荘(のちイギリス大使館別荘)が栃木県へ委譲されるという。

 サトウには『明治日本旅行案内 東京近郊編』(東洋文庫)があり内容は以下
「当時の日本研究第一人者による旅行案内書から東京近郊ルートをとりだして再編。詳細なガイドによって、明治初年の東京・横浜・鎌倉・箱根・日光・伊香保が生き生きとよみがえる」。
 サトウが別荘を建てたのは明治29西暦1896年というから日清戦争後で、かなり古い。老朽化がすすんでい改修してから一般開放するそうで、いつか訪ねてみたい。その前に本を読んで、サトウが見た明治の日光をイメージしてみようか。
 同じ東洋文庫に『アーネスト・サトウ伝記』(B・M・アレン)があり読んで興味深かった。

 ほかに『アーネスト・サトウ公使日記』(新人物往来社)にはずいぶんお世話になった。この日記には有名無名を問わずたくさんの人物が登場してい、わが柴五郎もその一人である。御用とお急ぎでない方は下記の引用『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』よりをどうぞ。

      (日露戦争凱旋ふたたびイギリスへ

 ポーツマス講和条約が結ばれ全軍に休戦命令が出た。前線の兵士は12月から順次凱旋していたが、柴五郎の連隊は講和から半年過ぎた年明け、それも2月になってやっと家族の待つ祖国へ帰れることになった。
 1906(明治39)年2月20日、野戦砲兵十五連隊(柴五郎連隊長)は大連に集合した。一行は運送船に分乗して大連を出発、23日から3月3日にかけ各中隊ごとに広島に到着、宇品港に上陸して汽車で品川駅に向かい凱旋した。
12日、退営式、翌日には復員を完結し召集者を解除、平時の編成に戻した。(中略)

 3月20日、五郎は席の温まる暇もなく連隊長を免ぜられ英国大使館付に補せられ四月、五郎はイギリス赴任を前にして兄四朗と会津に帰郷した。(中略)
 会津訪問を終え東京にもどると、五郎は海外旅券を受取ったり、皇居に参内し拝謁し賢所にも参拝するなど何かと多忙であった。

 五郎はロンドンの大使館に勤務するが、大公使館付武官は大使や公使を通さずに直接、参謀本部とつながってい予算も大公使館とは別についていた。このことは文官と武官の間に確執を生じやすく、後年それが現実となる。

 いよいよイギリスへ旅立つことになった五郎、林董外相公邸で催された午餐会に出席。その日の出席者はイギリスの初代駐日大使サー・マクドナルド、北京公使勤務を終えて帰国する途中に日本に立ち寄ったアーネスト・サトウ、ロンドン大使として赴任する小村寿太郎寺内正毅陸相斉藤実海相(のち二・二六事件で殺される)ほか日英の人々が出席、五郎と縁のある人物も少なくない。
 マクドナルドは6年前の北京籠城戦で五郎を信頼しその意見を用いた総指揮者であった。のちに
「その功績を一人あげるとしたら、謙遜で用兵作戦の名人の日本将校柴五郎である」とまでほめている。マクドナルドと五郎、日英二人の会話はどんなにはずんだことであろう。

 また斉藤実も五郎の恩人野田の世話になってい、よく知る仲である。寺内は上司であり、小村と立場は違えロンドンのイギリス公使館で日本のため共に働くのである。五郎をはじめ出席者に意義あるパーティーだったと察しられる。 

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