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2010年4月 1日 (木)

国立公文書館デジタルアーカイブ/柴太一郎

 

 

Photo  明治10(1877)年、西南戦争後の日本は、腕力より言論が力をもちはじめ自由民権国会開設運動がさかんになった。地方遊説も行われ板垣退助が遊説中襲われたとき言ったという
吾死スルトモ自由ハ死セン」は民権運動の合い言葉となった。その後、運動はますます過激になり激化事件がおきる。

 

 これらに関する記録は各地の公文書館に保存されている。以前はそこまで出向かなければ見られなかったがいまやインターネットの時代で便利になった。実物の手触りは無理としても公文書や、文化財の画像が自分のパソコンにとりこめるのだ。
 このほど国立公文書館のデジタルアーカイブがリニューアルしていっそう使いやすくなったという。
http://www.digital.archives.go.jp/

 うれしいニュースだけれど今は特に調べ物してないのでさびしいような。いろいろ検索すれば、ぼんやりとしたテーマが立ち上がってくるかな。
 写真は『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』を書くのに検索しダウンロードをした国立公文書館の明治16年の文書である。下記はそれを取り込んだ本文からの抜粋である。

 

  自由党諸事件(高田事件柴太一郎)

 激化事件のはじまりは福島事件でこれ以後群馬事件秩父事件などが続発した。一八八二(明治十五)年一月、福島県令に三島通庸が任命された。
 この三島は福島県に着任するや、
某が職にあらん限りは、火付け強盗と、自由党とは頭をもたげさせず」といい、さっそく三方道路の建設を決めた。この道路は山形県新潟県の二方から若松に達し、さらに栃木県に延ばして三方向、東北の米作地帯を東京に直結し、軍事的にも重要な道路であった。
 しかし、道路建設に巨額の人民負担を強制したため、県議会は議案を否決し三島の出鼻をくじいた。これに対し政府は集会条例を改正して自由党の組織を分断し、地方組織を孤立させた。

 新潟県では高田事件があった。一八八三(明治十六)年三月、北陸地方の自由党員二十六人が
「大臣暗殺、内乱陰謀容疑」で逮捕され高田警察署におくられた。新潟県高田市頸城は自由党の地方拠点でもあった。
 このとき高田にいた内務省警保局五等属柴太一郎はこの事件について、
完全ナラズシテ軽率着手セシ辺ハ免レマジク哉」と、逮捕前三月十六日に勝間田警保局長に報告した。
 検事と意見を異にした太一郎が証拠不十分であるといったように、検挙された党員はのちにほとんどが証拠不十分で釈放された。

 高田事件に関する報告は内務卿山田顕義を通じて三条実美太政大臣に上申されたが、文書中に太一郎の報告もある。
 おそらく三条が報告をいちいち手にすることはなかっただろうが、もし読んだとすれば京都守護職を務めた藩主の使いをした会津藩士、柴太一郎を思い出しただろうか。

 ところで太一郎が勤務する内務省は、はじめ勧業行政治安維持を担当していたが農商務相が設置されると官業部門をそちらへ移管し、この当時は警察と地方行政が主務であった。また警保局行政警察高等警察、出版事業に関する事項をつかさどり、戦前の官僚機構において中核の位置を占めた。


  

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