二葉亭四迷 略伝
石にたつ 矢も有るてふを 思ふこと とげでやむべき 我ならなくに
ますらをぞ わは大丈夫ぞ めめしくも 泣いてあらむや わが世拙くも
二葉亭四迷の和歌であるが、言文一致、最初の近代小説『浮雲』で知られる文学者のイメージに遠い。しかし、歌にこめた“志士”大丈夫の道、こっちこそ長谷川辰之助(本名)がほんとうに進みたかった道かもしれない。『東亜先覚志士記伝』(葛生能久)の略伝を読むとそう思える。仮にそうだとしたら二葉亭が今現在の日本をみて何を思うだろう。
5月10日は二葉亭四迷の命日、今年は没後100年にあたり「二葉亭四迷展」も開催されている。名前をきいて柴五郎を調べているとき思わぬ所、満州のハルビンに二葉亭がいたのを思い出した。
また文学者が黒龍会出版、志士の伝記に載っているのも意外な感じがした。なぜなら黒龍会とは明治34年内田良平らにより結成され、玄洋社から派生した右翼団体。大アジア主義、天皇主義を唱え、日本の大陸進出に裏面で暗躍した団体であるから。
『東亜先覚志士記伝』(発行昭和11年、二・二六事件の年)より略伝を転載する。筆名の由来もあり、どのような二葉亭四迷像か読んでみませんか。
長谷川辰之助(二葉亭四迷 露)
号は二葉亭四迷、文學者として有名である。元治元年二月三日、江戸市ケ谷尾州上屋敷に生る。父は長谷川吉敷、母は静子、彼はその長男である。幼にして名古屋、松江等に於て教育を受け、八歳にして早くもフランス語を学んだ。
明治十一東京に帰り、森川塾、済美黌等に入って漢学、数学を修め、三度陸軍士官学校に入学を志願したるも視力の故障により合格せず、十四年東京外国語学校ロシア語科に入った。
是より前、樺太千島交換条約成るに会し、いたく露国に対する敵愾心を刺激され、将来日本深憂大患となるはロシアにあるを思ひ、慷慨憂国の情やみがたく、先づ軍人たらんことを志し、その遂げられざるに及び露語研究に志すに至ったのである。十八(1885)年外国語学校が東京商業學校に合併せられしため改めてその露語科に転じ、十九年一月これを退学した。その頃より文学に興味を持ちゴーゴリ、ツルゲーネフ等の作品の翻訳を試みたが、武士気質の父は之を快しとせず
『小説など書くならくたばってしまへ』と叱責せし為、その語に因みて筆名を二葉亭四迷と称し、依然文筆に励み、二十年七月『浮雲』第一編を出版して頓に文壇に名声を馳せた。二十二年内閣官報局出仕となって翻訳を担任し、二十六年内閣屬官に転じ、三十一年海軍編輯書記に任ぜられ、三十二年陸軍大学校露語教師、東京外国語學校教授となったが、此間相次いで文部上の作品を発表し、文名益高きを加えた。
然れども生来の志士的性格は自ら純然たる文學者たるに甘んぜず、文學は男子畢生の事業にあらずと称して慷慨国事に任ぜんとする志を抱き、三十五年五月東京外国語學校教授の職を抛ちて露領浦潮(ウラジオ)に赴き、転じてハルビン、旅順等を歴遊し、露国の満洲経営の実状を備さに視察し、同年秋北京に赴き京師警務学堂の提調となった。
警務學堂総監督川嶋浪速は彼が東京外国語学校在学時代の同窓にして、夙に東方の問題に関して肝胆相照らす所あり、加ふるに当時警務学堂には教習として本邦志士の教鞭を執れる者少なからず、比等の志士と日夕対露問題を論じて画策する所あった。
翌年夏、任を辞して東京に帰り、三十七年三月大阪朝日新聞社に入り東京出張員として筆を執った。
明治四十一年六月、朝日新聞の露都(ペテルブルグ)特派員として赴任の途に上り、その途上新任駐日ロシア大使マレーウイツチ、及び倫敦(ロンドン)より帰朝し来れる小村寿太郎等に會して意見を交換する所あり、この行深く自ら期する所ありしに露都に入って後幾ばくもなく病に罹り、
其後一旦健康を回復したるも再び疾を発して活動意の如くならず、四十二年四月帰朝の途に上ったが、船のポートサイドに着した頃より病勢漸く革り、五月十日ベンガル湾を航行中ついに不帰の人となった。年四十六。
文学者として盛名一世に高かりしも、志士としての面目は殆ど世に伝えられず、耿々の志を抱いて早く倒れしは惜しむべき事である。
平生作る所の和歌、俳句少なからず、今その面目を偲ぶべきもの数首録す。
寄懐遠征之友
命あらば 又もあひみむし かはあれど いのちをおしむ 君にあらなくに
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物思ふ身を吊されし瓢かな
春三日おらが女房はよい女房
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