柴五郎とフランス語
4月は入学式、新学期で生徒は新しい教科書を使う。
小学校の教科書は大判でカラフル、黒板は2枚を上下させて使い、どちらも見やすくなっている。最近までゆとり教育がいわれ、のんびり?授業を進めていたのが今年度から「脱ゆとり」に路線変更された。
方針が変わり習うことが増えて困ると孫がぼやいていた。得意科目なら何のこともないが、苦手教科だとキツイだろうなと同情しつつも「やるしかないよ」と言っておいた。
さて、いきなり話がとぶが明治初期の陸軍幼年学校に入学した柴五郎は何を勉強したのだろう。例によって『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』から引いてみる。
陸軍幼年学校の教官はすべてフランス人で国語、国史などいっさいなく、九九までフランス語で地理歴史もフランスのだった。食事も洋食でまずいと言う者があったが、五郎にとってはフランス語以外は天国だった。会津弁の五郎にとってフランス語は発音からして難しく笑われた。
日本陸軍はのちに新興ドイツに乗りかえるまでフランス式だった。ちなみに海軍は世界の海軍国イギリスを模範として発達した。 夏休みはフランス語教師助手の有坂成章の下宿に同居させてもらった。麹町の商家の二階の下宿で、フランス語や他の教科も指導を受けた。
有坂の父は岩国藩士で銃砲鋳造に従事していた。成章は苦学して同藩の玉乃世履(タマノセイリ)について物理化学を学び、さらに長崎に行ってフランス語を学び、幼年学校の教師となった。
このときまだ二十一歳と若いが、のちに小石川造兵司(砲兵工廠)出仕となり参謀本部・遊就館や富津海堡などを築造するなど才能を発揮し、有坂式速射砲を発明した。
五郎はよき先輩に恵まれたが自らも寸暇をさいて自習した。五郎はもともと温和で正直、よく学問をしたがその勉強ぶりはすさまじい。蛍の光ならぬ、便所の光で猛勉強、反則であったがトイレの石油ランプを利用して勉強した。その甲斐あって、進級してからは優等生の仲間入りをし、フランス語の作文で教師から「トレビアン」とほめられるまでになった。
こうしてフランス語に堪能になったのはいいが、のちにドイツ式になり幼年生徒はドイツ語の勉強をしなければならなくなった。しかしドイツ語よりも苦労したのが日本文、漢文で五郎も同じである。読解力が貧弱で士官学校に進学できない者もいた。
写真は柴五郎がバンクーバーから立花小一郎(のち陸軍大将)に宛てた美しい筆記体の宛名書(国会図書館憲政資料室蔵)であるが、中の日本文は流麗なアルファベットと違い親しみがもてる文字で書かれている。
ともあれ五郎にとってこの時しっかり身に付けた語学は駐在武官の仕事に役立ったばかりか、海外の人々とも友情を育む助けにもなったのである。
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