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2010年4月 9日 (金)

柴五郎少年、陸軍幼年学校入学の日

 近年の桜は3月卒業式ごろに咲き出して4月の入学式シーズンには散り残りの桜がちらほら。でも今年は花冷えで桜の保ちがいい。やはり入学式には桜が似合う。

 明治少年柴五郎は15歳の春、陸軍幼年学校に合格。そしてマントにズボン、帽子、靴を買い求め、世話になった家々に出向いて挙手の礼をしてまわった。
 紺色の派手なるマンテルの裾、四月の風に翻り、桜花また爛漫たり、道行く人、めずらしき少年兵の姿を、とどまり眺めてささやくを意識し、得意満面、嬉しきこと限りなく、用事もなきに街々を巡り歩き、薄暮にいたりて帰隊す。余の生涯最良の日というべし。(『ある明治人の記録』会津人柴五郎の遺書)

 有頂天に喜ぶ様はここに至るまでの五郎少年の身の上を思うと無理もない。会津落城会津藩斗南藩となって本州の最北端に移住し食うや食わず、命をつなぐだけでも大変な境遇に落ちた。五郎少年は兄を頼って上京したが、兄柴四朗青森県に開拓中の洋式牧場へイギリス人二人の通訳兼案内人として旅だち留守だった。
 兄と入れ違いで頼るところがない五郎は東京をうろうろ、やがて淺草の元家老、山川家においてもらえた。山川家も旧藩の書生がおおぜい居候し、困っているのが一目でわかるほどだった。
五郎はそんな状況でも同郷の士が教官をしている塾で聴講したり、時には数学塾の玄関先で質問するなどしたが、授業料を払えず時間もないため進歩しなかった。

 いつしか季節は冬、でも五郎は相変らずの着たきり雀、浴衣一枚であった。山川の娘常盤が気の毒がって、アメリカ留学中の妹捨松の薄紫の裾模様の袷を出して袖を短くして五郎に与えた。それ以来五郎は後の大山元帥夫人捨松の着物を着て歩いた。周囲には異様に見えても温かいので満足していた。
 五郎の身なりもひどかったが、当時の東京は世相万端ちぐはぐで、奇妙な格好をしていても他人のことなど気にする者はいなかった。世間一般みな貧しかったのである。

 まもなく五郎は山川家を出て、福島県知事安場保和の留守宅の下僕となる。木綿絣の羽織を新調してもらったが、給料は一文も支給されず、仕事は掃除、食事の給仕など。娘が女学校登校の際は書籍包みと弁当をさげて供をした。武家の少年が少女の乗る人力車の後を遅れないよう走る。“昨日に変わるはかない暮らし”で傷ましい。

 五郎は幼年学校の生徒募集を知り勉強、準備するがままならない。そこへきて安場家が一家をあげて任地に往くことになり、五郎は年末に住む家が無くなった。そればかりか改暦で正月が早まり、五郎は年末どころか正月そうそう路頭に迷ってしまった。
 やむなく又も山川家の世話になり、幼年学校の合格発表を待つ。準備不足で心配したが合格通知が届き、衣食住の心配から解放され、学業に専念できることになった。
 冬の寒空に浴衣一枚だった少年が明治6年の春4月マントを翻し颯爽と・・・どんなに嬉しかったろう。それから137年後の今も4月の風は新入生に爽やかに吹き桜花を散らす。桜吹雪と新入生、絵になる光景は昔も今も同じ、ただし勉強に向き合う覚悟は大いに違いそう。

改暦:明治5年12月3日を明治6(1873)年1月1日とする。

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