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2010年5月20日 (木)

 明治・大正の植木通信販売

  川口市は「キューポラのある町吉永小百合さんの映画でおなじみ、鋳物の町として知られているが、安行植木も全国的に有名である。それには百年以上昔から苗木の通信販売をしていた故もあるかもしれない。
 「苗木の通信販売」が明治の昔から行われ、朝鮮半島にまで広がっていたのにただ感心。ところが戦前のアジアに進出、考え方に拠っては侵出した帝国日本の歴史に触れると思いは複雑だ。
  朝鮮の人が「本当は自国に産するものがよかったのに日本の苗木を植えなければならなかった」なんていうことはなかったのだろうか。どれだけ根付いただろう。今は日本から半島へ渡った樹木に花が咲いて美味しい実がなっているといいなあと思う。
 以下は『坂の上の雲』の時代、坂の下で根を張っていた生産者の歴史ともいえる通信販売の話です。

   「安行苗木の通信販売」
 明治31(1898)年、北足立郡役所の指導で苗木商を中心に「安行苗木共同販売所」(安行植物園)が設立された。業者は吉田耕三郎(通称花屋)・中田億右衛門・犬塚清八・中村八郎・中田源七などで、共同で通信販売を行った。のち「安行苗木販売組合」。
 共同で定価表・カタログを作成し全国的に配布し販売したのである。故老の話によると、カタログには何々の植木一年生は幾ら、二年生は幾らと書かれていたという。

 明治34年には朝鮮半島との通信販売を開始、日清戦争が終って苗木がだいぶ売れるようになっていた。朝鮮にたくさん売っていた時は「京城日報」「毎日新報」に広告を出すとカタログ送れと反応があり注文がとれた。

 明治から大正にかけては通信販売が盛んで、山林苗木花木類が主だったが、野菜や花の種子まで扱った。大正初期のカタログには、果樹苗木と山林苗木(ハンの木・トネリコ・アカシヤ)が半々、他にチューリップ百合も載っていた。サツキボタンの古いカタログが残されている。

 昭和10(1935)年当時も埼玉県経済部は販売方法にカタログを第一に上げている。戦前のカタログは組合で作られた物に、各農園の名前だけ印刷してあって、値段は殆ど同じで出版されていた。
 苗木の送付方法は、全部水苔を巻いてワラで荷造り(竹の子包)して送っていた。戦後になるとビニール包装して段ボール入りに変わっていった。
                                       (『安行植木と農業ノート』より)

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