津軽海峡/青函トンネル記念館
「松前・江差の歴史を訪ねて」というツアーに参加。新幹線で東京を出発、津軽海峡の海底を通って北海道・木古内駅に到着しました。そこから遠くない福島町に青函トンネル記念館があり“新幹線、海を超える!”感動を展示しています。
中に入ると日本初のトンネルボーリングマシーンの実物がどーんと展示され、見る物を圧倒します。映像に加えて、説明をするボランティアさんが実際にトンネルを掘った方なので話に実が入っていて、とてもいいです。
技術や機械のことはよく判らないですが、技術畑の夫はかなり興味深い様子で真剣に聞き入っていました。工事中のトンネル内の温度は40度にもなった、大きな事故もあったなど聞くにつけ作業の大変さが察せられました。
行って良かった「青函トンネル記念館」、折がありましたらどうぞ。日本人はすごいと思えるのでは。
青函トンネルが最新なら、次は戊辰戦争に敗れた会津藩士が下北半島に移住するとき柴兄弟が渡った津軽海峡です。
下北半島へは海路と陸路を何組にも分かれて移住した。陸路を行った者は粥をすすり、空腹をかかえ、途中雨や雹(ひょう)にたたかれても着替もないありさまで、死亡した者も多かった。
海路をとった1800人余りはアメリカ蒸気船に乗って新潟から日本海回りで下北半島に向かい1870(明治3)年6月10日、大平浦に上陸した。今そこには「斗南藩上陸の地」の記念碑が建てられ、会津若松の方を望んで設置されている。小帆船で船酔に苦しむ苦難の旅であった。柴家は太一郎と五郎の兄弟二人が海路をとり、父佐多蔵はいったん会津に帰り自刃した家族の墓参を済ませて、陸路を北上することにした。五三郎と四朗は将来にそなえて勉学するため東京に残留した。
太一郎と五郎は品川沖から800トンのアメリカ蒸気船に乗った。船は下北半島を迂回して津軽海峡を通り陸奥湾深く、野辺地港に到着した。その進みはゆっくりゆっくりで、船酔に苦しむ五郎には辛く長い航海だった。
柴兄弟は野辺地に2ヶ月とどまって斗南藩の田名部に向かうが途中、横浜村に一泊した。この下北半島の横浜はいま菜の花の町として知られる。当時は海浜の波打際に野菊が咲き乱れ、見渡す限りハマナスが赤い実をつけていた。その光景は五郎少年のいっときの慰めとなった。
(『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』斗南藩より)
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